2017年9月1日金曜日

日本最古の大王(大神)

 宋書倭國傳に、倭王「武」の「上表」の全文が記録されている。

『順帝(劉宋、第八代、最後の天子)の昇明二年(478)、使を遣わして表を上る。いわく、「封國は偏遠にして、藩を外に作す。昔より祖禰ソデイミズカら甲冑を擐ツラヌき、山川を跋渉バッショウし、寧処ネイショに遑イトマあらず。東は毛人を征すること五十五國、西は衆夷を服すること六十六國、渡りて海北を平ぐること九十五國。王道融泰にして、土を廓き畿を遐にす。累葉朝宗して歳に愆オコタらず。臣、下愚なりといえども、恭なくも先緒を胤ぎ、統ぶる所を駆率し、天極に帰崇し、道百済を遥て、船舫を装治す。しかるに句驪無道にして、図りて見呑を欲し、辺隷を掠抄し、虔劉して已まず。毎に稽滞を致し、以て良風を失い、路に進むというといえども、あるいは通じあるいは不らず。臣が亡考済、実に寇讐の天路を壅塞するを忿り、控弦百萬、義声に感激し、方に大挙せんと欲せしも、奄かに父兄を喪い、垂成の功をして一簣を獲ざらしむ。居しく諒闇にあり、兵甲を動かさず。これを以て、偃息して未だ捷たざりき。今に至りて、甲を練り兵を治め、父兄の志を申べんと欲す。義士虎賁文武功を効し、白刃前に交わるともまた顧みざる所なり。もし帝徳の覆載を以て、この彊敵を摧き克く方難を靖んぜば、前功を替えることなけん。窃かに自ら開府儀同三司を仮し、その餘は咸な仮授して、以て忠節を勧む」と。詔して武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六國諸軍事、安東大将軍、倭王に除す。』(宋書倭國傳)

 赤字で表してある部分であるが、自ら甲冑を着用して、戦場に立った祖禰(ソデイ、祖先)の王者とは、伊邪那岐尊(イザナキノミコト)神倭伊波禮毘古尊(カムイイハレヒコノミコト、神武天皇)の二人だけである。

 二人の内、神武天皇は、東征はしたけれど、西と海北には兵を動かして居らず、ここに記述してある祖禰には当たらない。

 では、伊邪那岐尊について考えよう。
 伊邪那岐尊が活動を開始した時点では、葦原王国(中国地方の西半部)が拠点になった。
 記紀によれば、先ず、淡路島(アワジノシマ)、次いで、淡島(アワノシマ、現四国)、筑紫島(チクシノシマ、現九州)の順に征服し、更に、隠岐島・佐渡島・越島(越前・越中・越後)や周辺の小島等を奪取していった。
 即ち、東の毛人五十五カ国、西の衆夷六十六カ国がこれである。
 ここで云う「国」とは、大小の豪族が、自らのなわばりと主張している地域を云う。
 ところが、記紀には記載されていないのが、海北の九十五カ国である。
 これは、地理的には、朝鮮半島そのものであり、国の数から見て、現在の韓国の領域とほぼ同じ地域と見て良い。
 伊邪那岐尊は、兵を率いて渡海し、遮二無二この領域を占領したのであろう。
 これこそが、八世紀の大和朝廷では記述する事すらタブーとなっていた「アマ」の領域であり、高天原(タカアマハラ)そのものであろう。
 大和朝廷において記紀を編纂していた時代には、朝鮮半島南部地域は、既に、大和朝廷とは無関係の他国になっている為、記紀ではアマもタカアマハラも、その国の場所を曖昧にして表現してある。 
 (古事記は西暦七一二年、日本書紀は西暦七二〇年に完成した)

詳細については、2017年4月投稿の「葦原王朝」を参照されたい。

 この時点で、大王(大神)を名乗った伊邪那岐尊の統治する地域は、現在の中国地方、四国全土及び九州全土、北陸地方(新潟県、富山県、石川県、福井県)、朝鮮半島の南部地域(高天原)、並びに周辺諸島嶼と見て良かろう。
 伊邪那岐尊は、高天原の統治者として御子の天照神アマテラスノカミを派遣した。 アマを統治(タラス)女王の意を持つ贈り名である。
 四国には御子の月読尊ツキヨミノミコトを赴任させた。 トコユノクニ(四国の別名)を見る(統治する)の意の贈り名である。
 最後に、末子ながら、須佐之男尊を太子に指定した。
 日本書紀一書(6)に「須佐之男尊は天下(アマ以外の諸国)を治らす(統治する)べし」と記されている。 

2017年6月16日金曜日

二倍年歴という概念

 二倍年歴という概念

 古代における歴年の計算には、二倍年歴という概念を導入する必要がある。
 二倍年歴とは、例えば、日本書紀に神武天皇が127歳まで生きたと記述されてあるが、実際はその半分の63~64歳であったとする計算法であり、この方式によれば古代における歴代天皇の異常な長寿の謎が解けるであろう。(古事記では、神武天皇は137歳まで生存。この古事記と日本書紀との10年の開きは、初代神武天皇の崩御後、二代綏靖天皇の即位までの間、異母兄の手研耳命の統治期間であったようである。)

 二倍年歴の根拠は、魏志倭人伝の注記にある。
『魏略に曰く、其の俗、正歳四節を知らず、但、春耕秋収を計りて、年紀と為す』
 つまり、魏志倭人伝が記された三世紀当時の「筑紫王朝」(大和王朝も同じ)は、中国で通用している陰暦を知らず、春分・秋分の日を元旦として、一年を二歳に数えていたという事実である。
(どのようにして春分・秋分を知り得たかは、別に考察する必要が有ろう)

 この二倍年歴は、大和王朝では、第二十六代継体天皇まで続き、第二十七代安閑天皇からは現代と同じく一年を一歳に数えていたようである。

 その根拠は、継体天皇の崩御の年次と干支にある。
 日本書紀の本文では、継体二十五年(辛亥五三一)に82歳で崩御とあるが、或る本に拠ればとして、二十八年(甲寅五三四)に崩御されたとある。
 実は、日本書紀の編者は「百済本記」に『辛亥年(五三一)、…日本の天皇及び太子・皇子、倶にかむさりましぬ』とあるを採って本文にしたのであった。
 この記事は、「筑紫王朝」の王者「磐井父子」の戦死の記録なのである。
 継体天皇崩御の年次は或る本の二十八年のほうが正しい。
 継体天皇の末年(五三一)、大和王朝は筑紫王朝を奇襲攻撃し、磐井父子を討ち取ったが、その際、筑紫王朝で使用されていた「陰暦」の知識を吸収し、新知識として採用したものと思われる。
 継体天皇は、第二十七代安閑天皇に譲位されて、その日の内に崩御されたのであって、一応安閑天皇以下の各天皇の記録は、陰暦に概ね一致するようになった様である。
 安閑・宣化・欽明朝時代の外交記事は、多少の矛盾は見られるが、概ね妥当な年次であろう。(5年~10年の誤差は、資料が求めにくい時代であるので、やむを得まい)

 「筑紫王朝」がいつ頃から「陰暦」を使い始めたのかは、霧の彼方の謎であるが、恐らく、卑弥呼の貢献以後、比較的早い時代であろう。

 では、神武天皇から継体天皇に到るまでの、歴代天皇の即位の年次はどのように書き換えたらよいのであろうか。

 ここで、神功皇后の「摂政」に関する疑問を考えたい。
 古事記では、神功皇后の事績は、「新羅征伐」、「皇子の出産」、「皇子の異母兄弟の討伐」の三つしかなく、皇子が成人するまでの間、「摂政」として政務を執ったことなどは全く書かれていない。
 一方、日本書紀では、69年間も「摂政」を務めたことになっていて、矛盾している。
 (魏志倭人伝の「卑弥呼」と同一人物にするための苦肉の策か)
 仮にこの69年間を事実と認めたとすると、皇后の崩御の後、応神天皇は70歳で即位されたことになり、まことに不自然である。
 皇子(応神天皇)が幼児である頃に即位したとしても、当時としては、不思議ではなく、成人するまでの政務は、有能な家臣(竹内宿禰)が居り、十分に補佐した筈である。神功皇后は皇子が即位するまでは、母親として振る舞っていたと見る(摂政に準じた存在)。
 つまり、日本書紀に「摂政」として記されている年月の内、69年間は、架空のものと見て良かろう。

 神武天皇が即位された年は、前述の安閑天皇の元年(西暦五三四年)を基準として、従来の一倍年歴で計算すれば1193年遡った西暦紀元前六六〇年になっていた。
 しかし、神功皇后紀の内、実体のない69年という年月を差し引けば、1124年さかのぼる西暦紀元前五九四年前後となろう。
 二倍年歴では562年さかのぼった西暦紀元前三十年前後になる。
 記紀の編纂者達が、どの様な資料を基にして神武以来の各天皇の在位期間を計算して記録したのか、今となってはうかがうすべも無いが、讖緯説などによって在位期間を無理に引延ばしたとは思えない。
 ここは素直に二倍年歴があったとされる事実を認めて「神武天皇は、西暦紀元前三十年前後に即位した」と考えては如何であろうか。
 当時26歳前後であったので、その誕生は紀元前五十六年前後であろう。

 又、日本書紀に記されている、継体天皇以前の歴代天皇の年齢及び在位期間は、半分にする必要があろう。
 「神武、綏靖、安寧……」と続く歴代天皇の即位年を、二倍年歴で換算した西暦年号で列挙すれば次のようになる。

初代    神倭伊波禮毘古命(神武天皇)        前30年 前後
第2代   神沼河命(綏靖天皇)           14年 前後
第3代   師木津日子玉手見命(安寧天皇)       31年 前後
第4代   大倭日子鉏友命(懿徳天皇)         50年 前後
第5代   御真津日子訶恵志泥命(孝昭天皇)       67年 前後
第6代   大倭帯日子國押人命(孝安天皇)        109年 前後
第7代   大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)      160年 前後
第8代   大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)      198年 前後
第9代   若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)      227年 前後
第10代  御真木入日子印恵命(崇神天皇)        257年 前後
第11代  伊久米伊里毘古伊佐知命(垂仁天皇)    291年 前後
第12代  大帯日子淤斯呂命(景行天皇)          341年 前後
第13代  若帯日子命(成務天皇)                371年 前後
第14代  帯中津日子命(仲哀天皇)              401年 前後
第15代  品陀和気命(応神天皇)                406年 前後
第16代  大雀命(仁徳天皇)                    428年 前後
第17代  伊邪本和気命(履中天皇)              472年 前後
第18代  水歯別命(反正天皇)                  475年 前後
第19代  男浅津間若子宿禰命(允恭天皇)        477年 前後
第20代  穴穂命(安康天皇)                    497年 前後
第21代  大長谷若建命(雄略天皇)              499年 前後
第22代  白髪大倭根子命(清寧天皇)            509年 前後
第23代  弘計之石巣別命(顕宗天皇)            511年 前後
第24代  億計命(仁賢天皇)                    513年 前後
第25代  小長谷若雀命(武烈天皇)              518年 前後
第26代  袁本杼命(継体天皇)                  521年 前後
第27代  広國押建金日命(安閑天皇)            534年 前後






2017年5月29日月曜日

古代日本の外交

古代の日本の外交は、九州(筑紫)王朝が、一手に行なっていた。
九州王朝なんて、本当にあったの?
疑い深い気分で、じっくり読んでみてください。



一章 紀元前の概要
(紀年は、元になる日本書紀の紀年の根拠が不確かな上、二倍年歴で換算してあるので、従来の各種歴史書に記されている暦年とは、甚だしく異なっており、その矛盾を埋める為、中国や朝鮮の史書によって補正した。中国及び朝鮮の記録によるものの他は、10~20年程度の誤差を生じているのは仕方がなかろう。特に、神功皇后の前後の記録は、従来から最大120年の誤差があると言われている)

一 東夷とは (要図一 参照)
『蓋国は鉅燕の南、倭の北に在り。倭は燕に属す。…』(山海経・海内北経)
 「燕」は、孔子が生きた「周」末期の時代(紀元前五〇〇年前後)に、今の北京付近を首都とした中国東北部の大国。
 蓋国は鴨緑江の南側で、中心地は今の北朝鮮の平壌付近に在った。
 即ち、倭人の国が朝鮮半島南部に在り、蓋国と倭は国境が地上で接している事を表す。
 ただ一つの例外がある。
『島夷、皮服す。(注釈 島に居す夷。島は是れ海中の山)』(尚書巻一)
 島夷とは、日本列島上の倭人を指す。
 尚書は「周」の時代に編纂された中国の最古の古典の一つで、この巻一にこの文が記されているということは、少なくとも「周」の時代には、中国の為政者は、大陸の東方に島があり、「倭」の種族が住んでいると言うことを認識していた、と見ることが出来よう。
 「皮服」であるが、列島上の人類全員が皮の被服を着ている訳はなく、朝鮮半島を経由した伝聞であろう。
 「漢」以前の史書類に現れる「東夷」とは、扶余・濊・粛慎・貊・烏丸・沃沮・骨都・高句驪・倭等を言う。(九夷)
比較的穏和で礼儀を重んずる民族であることを、古代中国の聖人周公や孔子も認めていた。
 孔子などは、そこに行ってみたいなどと言っている。
『殷の道衰え、箕子去りて朝鮮にゆく。其の民に教うるに礼儀を以てし、田蚕織作せしむ。然して東夷の天性従順、三方の外(北狄・西戎・南蛮)に異なる。故に、孔子、楽道の行われざるを悼み、もし海に浮かばば、九夷に居らんと欲す。ゆえあるか。』(漢書燕地)
 「倭の人」が、古代中国の為政者にどのように認識されていたかを示す文が多々あるが、二つを記す。
『魯公に命じて世々周公を祀るに、天子の禮楽を以てせしむ。昧マイは東夷の楽なり、任は南蛮の楽なり。夷蛮の楽を大廟に納め、広魯を天下に言うなり。』(禮記巻十四)
 禮記は、尚書と並ぶ中国の最古典。
『成王の時、越常、雉を獻じ、倭人、暢チョウを貢す。』(論衡巻十九)
 成王は紀元前1115~前1079年に在世した周の第二代天子であり、暢とは黒黍で醸した酒に香草で香りを付けたものだという。越裳(越常)は今のベトナムを指す。
 「夷」又は「倭」は当時の発音で「ゥイ」又は「ヰ」と読むべきであろう。

二 朝鮮半島南半部に「アマ国」成立 (要図二 参照)
◎ 前四〇〇年前後であろうか、中国本土に於いては、「戦国時代」の幕開けの頃である。

 朝鮮半島南半部でアマ王国(倭人の国)が成立した。(中国では、「韓」と言っていた)
 このアマ王国は、大陸系の文化を受け入れやすく、比較的強大であったンマ国(馬韓)を中心に結成されたが、全土を統一するには至ってなかった。首都は、南漢山(漢城)であった。
 中国に早くから朝貢を行っていた倭人の国とはこれであった。 
 その範囲は現代の韓国の領域にほぼ等しく、その西半部はンマ系統の諸氏族、黄山江流域以東はミム(弁韓)系統の諸氏族が蟠踞し、それらの氏族のうち北方の多くはンマの傘下に入っていたが、南半部では独立している氏族もかなりあった。
 
記紀では、アマの初代国王に「神産巣日神カミムスヒノカミ」という和風の贈り名(諡号)をつけた。
 これは、諸氏族(カミ)を統合(ムスビ)した王と言う意味を持つ。
 高祖を尊んで「天之御中主神アマノミナカヌシノカミ」と贈り名した。
 この国は、旧宗主国「中国」にならって、傘下に入った諸氏族に、年貢納入のみを要求した程度の、比較的緩やかな結合体であったようである。

三 日本列島に「葦原王国」成立 (要図三 参照)
 前三五〇年前後であろうか、日本列島山陰地方のオホ(島根県太田市)に、ンマの王族や貴族が、大陸系の文化を持って大挙渡来し、文化を普及した為、オホは付近の諸豪族達とはひと味違った文化国家を形成することになった。五〇年も経つと、オホは、めきめき経済力を付け、若干の武力を用いただけで、「石見」「出雲」諸豪族を傘下に納めた。
 前三〇〇年前後には、国名を「葦原王国アシハラオウコク」と名付ける。
 初代国王の活躍に併せて、「葦原王国」の文化にあこがれた「伯耆」「因幡」「長門」の諸地域も傘下にはいることになった。

 記紀では、初代国王に「宇摩志阿斯訶備比古遅神ウマシアシカビヒコジノカミ」と贈り名を付けた。
 更に、第二代国王の代にいたって、軍制を整備したことにより、この力を背景として、「但馬」「備後」「安芸」「周防」の地域も傘下に入った。
 
四 半島東南端に「シンル国」成立 (要図四 参照)
 前三〇〇年前後であろうか、ミムの東南端地域に於いては、「高氏」の一族が、力を付け、付近の小氏族達を恫喝し、勢力範囲を広げつつあった。
 遂に、三〇年も経つと、シンル国(辰韓)として、独立するにいたり、首都を金城に定め、更に、西方に肥沃の地を求め、黄山江(洛東江)流域のミムの領域に侵略を開始した。

 記紀では、初代国王を「高御産日神タカミムスヒノカミ」と名付けている。
 これは、高氏を中心として国をまとめた鮮(ヒ)の王の意であろう。

 アマ国王は、黄山江流域のミム諸国の要請に応じて、シンルの侵略を制止しようと試みたが、当時、軍制は整って居らず、シンルの侵略を押さえることが出来なかった。
 アマ国王は、やむを得ず、葦原王国に援兵を要請することになった。
 葦原王国第二代国王は、鍛え上げた精兵(三千名程度か)を従え、軍船(二百隻程か)をもってミムの領域に上陸し、この武力を背景に仲裁の処置を行い、見事に、シンルの侵略を止めることが出来た。
 この為、従来はアマ王国は葦原王国より上位の国として振る舞っていたのだが、アマ国王も葦原王国の実力を認識し、この時点で上下の関係は逆転し、葦原王国を上位の国として立てることになった。
 葦原王国第二代国王には、「天之常立神アマノトコタチノカミ」と贈り名されている。アマの基礎を確立した王という意味を持つ。

五 九州島東北端に「豊国」成立 (要図三参照)
 前二五〇年前後か、国土拡張の夢を閉ざされたシンル国王の一派は、兵五百~六百程を徴募し、新天地を求めて、海を渡って日本列島に到着、九州北岸(現北九州市近辺)に上陸、武力をもって周辺の小豪族を恫喝して、遮二無二領域を確保、更に「筑紫」「長門」へと手を伸ばし始めた。当時北九州には、五百以上の兵力を準備して対抗できる豪族は居なかった。
 最初の根拠地としたのが、「豊前」北部であった為、国名を「豊国トヨコク」とした。
 記紀では、初代国王を「国之常立神クニノトコタチノカミ」としている。
 クニ(アマに対して言う)の基礎を築いた王の意であろう。

六 列島西部に「葦原王朝」成立
◎ 前二二一年、「秦」による天下統一が成り、中国本土に於ける「戦国時代」が終結した。
◎ しかしこの「秦」も長続きせず、始皇帝の崩御後八年間の動乱の期間を経て、「漢」王朝が開
かれる。(前二〇二年)

 前二一〇年前後であろうか、日本列島西部に於いては、葦原王国後継王女の伊邪那美尊イザナミノミコトと豊国太子の伊邪那岐尊イザナキノミコトとの政略結婚がまとまった。葦原・豊連合王国の成立である。
 国力の差があり、女王の伊邪那美尊が帝王で、伊邪那岐尊は副王であった。
 爾後、連合王国は、副王伊邪那岐尊が自ら総司令官となり、二〇数年間をかけて、四国・九州・周辺諸国を逐次傘下に納め、「葦原王朝」として、北越・中国・四国・九州地域の統一が完了した。(具体的なことは古事記にも書かれては居ないが、拙著「葦原王朝」を参考にして頂きたい)
 この王朝は、アマ王国と共に中国の出先機関(燕)に対して貢献を行っていたようである。
『楽浪海中倭人イジン有り。分れて百餘国を為す。歳時を以て来り献見す、と云う。』(漢書燕地)

 前一八〇年前後、伊邪那岐尊は、アマ王国に攻め入り、圧倒的な兵力の格差と、作戦能力の差をもって、この国を占領し、数年間をかけて住民の慰撫等の戦後処理を行った。
 統治者として、王女の天照神アマテラスカミを派遣する。アマを統治する(タラス)女王の意。
 天照神は、呪術と仁慈をもって統治し、これが為、最終的には、天照大神アマテラスオオカミ(大女王)として敬愛される。
 一方、葦原王朝(アマに対してクニと称する)も、伊邪那岐尊の太子の須佐之男尊スサノオノミコトが大神(大王)となった。

七 「筑紫王朝」の成立
 前一七〇年前後、天照大神が統治するアマと、須佐之男大神が統治するクニとの間に、重大な軋轢が有ったが、紆余曲折の結果、条約が締結され、アマもクニも、いずれかの時期に、天照大神又はその子孫が統治することになった。
 前一三〇年前後、アマ国とクニの後継大王(大国主神)との間に、あらためて「国譲り」の談判が行われた。
 その結果、天照大神と須佐之男大神が締結していた条約通り、クニの全ての領域はアマのものとなり、天照大神の子孫(天孫)がアマからクニの「筑紫」に降臨し、新王朝を開基することになった。
 この新王朝を便宜上「筑紫王朝」というが、いつの頃からか自ら「倭国イコク」と言う様になった。
 「筑紫王朝」の初代の大王及び副王を「天照国照彦火明尊アマテラスクニテラスヒコノホノアカリノミコト」及び「天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸尊アマニギシクニニギシアマツヒコヒコホノニニギノミコト」という。
大王及び副王は略称として、天火明尊アマノホノアカリノミコト及び天番能邇邇芸尊アマノホノニニギノミコトと言う。
この「筑紫王朝」の統治範囲は、元の「葦原王朝」の領域の他、「アマ国」の領域を含む。
 因みに、「九州」という名称は、古代中国に於いて、天子の直轄領を表し、「倭国」もそれをそっくりまねした。

◎ 前一〇九年、「漢」の武帝による朝鮮征討が行われ、半島北半部が占領され、中国直轄の郡治(郡の役所)が置かれたが、この頃には「筑紫王朝」傘下の「アマ国」も十分な軍制をもっていた上、永く中国に朝貢を続けていた模範的国家として認められ、中国に併呑されることを免れた。

八 「筑紫王朝」権威の低下(要図五 参照)
 平穏無事な年月が流れたが、王朝開基以来100年近くも経つと、「倭国」に強力な御子が生まれなかったこともあり、政権のタガが緩みはじめ、その威令が傘下の各国に届きにくくなり、それらの諸国が次々に独立することになった。
 やはり、十分な武力と強烈な意志を伴わないことには、大国を維持することは困難であろう。

 先ず、朝鮮半島である。
 前五七年に、シンル(辰韓)十二カ国が、「新羅」として独立。(三国史記)
 前一八年に、ンマ(馬韓)五十五カ国が、「百済」として独立。温祚王即位(三国史記)
 ミム(弁韓)には、統一した国王が居らなかったようで、黄山江流域の「任那ミマナ」という地域に、十二カ国の小国が並存した状態が続き、「筑紫王朝」から官吏が派遣されて徴税を担当していた様であり、年貢の納入は続いていた。
 「葦原王国」「四国」「熊襲国」も同盟は維持しつつ、実質的には独立してしまった。
 ついでの事ながら、「高句麗」が前三七年に建国している。(三国史記)

九 二つの王朝並立の時代
 筑紫王朝から独立した葦原王国は、筑紫王朝とは和親の方針を維持していたが、実質的には「葦原王朝」の性格が強く、統治下の国々も、北越地方から中国地方へと広がっており、国力(経済力)は、当時の日本列島内では群を抜いていた。
 ただ、この「葦原王朝」は中国・朝鮮との外交は、「筑紫王朝」の専権事項として、自らは遠慮したのか、行わなかったようである。

 なお、紀元前三四年前後に「鳶王国(現近畿地方・大和)」を打倒し、「大和政権」を確立した「神倭伊波禮毘古尊カムイイハレヒコ(神武天皇)」は、あくまでも「筑紫王朝」の代官として振る舞っていたようである。
 その後、筑紫と大和とは、人物の往来も多く、文化の伝播も行われていたようであるが、後の第二十六代「継体天皇」の御代の末年までは、「筑紫王朝」を上位国として立てていた形跡が濃厚である。




第二章 後漢、魏、晋との交流

一 「後漢」との外交
◎ 「漢(前漢)」の時代は、紀元前二〇二年以来、210年間、連綿と続いていた。
◎ 紀元八年、前漢の宰相王莽が帝位を簒奪し「新」王朝を開くが、15年後の紀元二三年には
滅亡する。
◎ 紀元二五年、光武帝(劉秀)により「漢(後漢)」が復興した。


 中国の正史に現れる最初の外交記事として光彩を放っているのが、「金印授与」である。
 従来、中国に対する貢献は行われていたのであるが、中国の出先機関(帯方郡治)に対して使節を送るに止まっていた。
 それを、「漢」の朝廷まで使節を送り込み、皇帝に謁を賜ったのである。

五七年
『建武中元二年春正月、東夷倭奴国王、使を遣わして奉献す。』(光武帝紀)
『建武中元二年、倭奴国、貢を奉って朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界也。光武、賜うに印綬を以てす。』(後漢書)
 (金印「漢委奴国王」福岡県志賀島で発見)
 続いて、約50年後、やはり「筑紫王朝」の貢献記事が中国史書に記録される。

一〇七年
『永初元年冬十月、倭国、使を遣わして奉献す。』(安帝本紀)
『倭国王帥升スイショウ等、生口百六十人を献じ、請見を願う。』(後漢書)

◎ 時は移り、「後漢」の権威も落ち目となり、一八四年頃から、各地で反乱が相次ぐ事になった。
  約35年間の内乱の後、二二〇年、「魏」が「後漢」から禅譲を受けた。


二 「魏」及び「晋」との外交
 ここで、「ヤマタイ国」論争で、歴史研究家や有名小説家までが大騒ぎした「魏・晋朝」への貢献記事が現れる。
 景初元年七月、遼東太守公孫氏(楽浪・帯方郡も治めていた)が反乱し、魏の明帝は、景初二年正月から八月までの間にこれを征伐させた。
 当時、「魏」による天下統一は未だ成らず、「蜀」・「呉」と覇権を争いつつある最中に、身内の公孫氏からも背かれたのである。
 卑彌呼(ヒミコ)朝貢の六月は、この戦いの最中であり、従来公孫氏を通じて中国に貢献していた「筑紫王朝」が、公孫氏を見限って、魏朝に直接接触を図った事件であり、魏帝は殊のほか喜悦したものと見える。
 その証拠が、中国の外夷の他の国々に例を見ない莫大な下賜品と異例の長文の詔書である。

二三八年
『景初二年六月、倭の女王、大夫難升米ナンショウマイ等を遣わし、郡に詣り、天子に詣りて朝獻せんことを求む。太守劉夏、吏を遣わし將って送りて京都に詣らしむ。
 其年十二月、詔書して、倭の女王に報じて曰く、「親魏倭王卑彌呼に制詔す、帯方の太守劉夏、使を遣わし汝の大夫難升米、次使都市牛利ギュウリを送り、汝の獻ずる所の、男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉り、以て到る。汝が在る所、遠きを踰え、乃ち使を遣わして貢献す。是れ汝の忠孝、我れ甚だ汝を哀れむ。今、汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を假し、裝封して帯方太守に付して假授せしむ。汝、其の種人を綏撫し、勉めて孝順を為せ。
 汝の來使難升米・牛利、遠きを渉り道路勤勞す。今、難升米を以て、率善中郎將と為し、牛利を率善校尉と為し、銀印青綬を假し、引見勞賜して遣わし還す。
 今、絳地交龍錦五匹・絳地縐粟罽十張・蒨絳五十匹・紺青五十匹を以て、汝の獻ずる所の貢直に答える。
 又、特に汝に、紺地句文錦三匹・細班華罽五張・白絹五十匹・金八兩・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛丹各五十斤を賜い、皆裝封して、難升米・牛利に付す。
 還り到らば、録受し、悉く以て汝が國中の人に示し、國家汝を哀れむを知らしむべし。故に鄭重に汝によき物を賜うなり」と。』
(魏志倭人伝)
 卑彌呼の貢物は、まことに貧弱であるが、使者一行が戦場の中をさまよい、魏朝側の司令部を捜しあてるまでに、持参した貢物のうちの多くを、ワイロとして使わなけれぱならなかったのではあるまいか。
 ともあれ、戦争の帰趨を、いち速く察知し、戦争終結以前に勝利者側に渡りをつける国際感覚は、並大抵のものではなく、当時、中国の出先機関と「筑紫王朝」との間は、官民を問わず往来が頻繁であったものと恩われる。
 従来、景初二年六月は、景初三年六月の誤りであるといわれたものであるが、誤りではない。
 魏の明帝が景初二年十二月に急病を発し、景初三年正月に崩じたため、景初三年という年は、魏朝は喪に服しており、外交も含めて一切の諸儀典は停止されていたのである。

二四〇年
『正始元年、太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、詔書・印綬を奉じて、倭國に詣り、倭王に拝假し、并びに詔をもたらし、金帛・錦罽・刀・鏡・采物を賜う。倭王、使に因りて上表し詔恩を答謝す。』(魏志倭人伝)
 詔書と下賜品は、本来倭国の使者に渡される筈であったが、明帝の急病から崩御に至るまでの宮廷の騒ぎに紛れてしまい、難升米等も、取るものも取りあえず帰国せざるを得なかったのであろう。
 次の皇帝が即位し、年号が正始と改められてから、改めて魏朝側が使者団を編成し、「筑紫王朝」を訪問した。
 なお、卑彌呼は上表したとあり、当然文字を駆使していたであろう。これは、従来、大和朝廷に文字が伝来したとされる応神天皇の十六年(410)よりよほど早い時期だ。

三 百済消滅 (要図六 参照)
『国に鉄を出す。韓・濊・倭、皆従いて之を取る。諸市買、皆鉄を用う。中国の銭を用うるが如し。又以て二郡(楽浪・帯方)に供給す。』 (魏志韓伝)
 鉱山は、地形的に特定しにくいが、上記三国が「鉄を取る」ということから、漢江上流と黄山江上流に挟まれた、現チェチョン市、ヨンジュ市、ムンギョン市付近の山岳地帯であろう。
 或いは、漢江上流北方の山岳地帯かも知れない。

 この頃、「魏」と「百済」との間に、鉄鉱山を巡って争いがあり、その結果郡治の帯方太守の弓遵が戦死する程の激戦となった。
 百済は敗れて降伏し、百済は中国直轄地とされた。
 魏は、新たに、半島西南端に「真蕃郡治」を設けた。

二四三年
『正始四年、倭王、復た使大夫伊聲耆イセイキ・掖邪狗エキヤク等八人を遣わし、生口・倭錦・絳青縑・緜衣・帛布・丹・木拊・短弓矢を上獻す。掖邪狗等、率善中郎将の印綬を壹拝す。』(魏志倭人伝)

二四五年
『正始六年、詔して倭の難升米に黄幢を賜い、郡に付して假綬せしむ。』(魏志倭人伝)

二四七年
『其八年、太守王頎、官に到る。倭の女王卑彌呼、狗奴國の男王卑彌弓呼ヒミクコと素より和せず。倭載斯烏越ウエツ等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹掾史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢を齎らし、難升米に拝假せしめ、檄を為して、喩して之を告ぐ。』(魏志倭人伝)
 狗奴國はおそらく薩摩・大隅付近を根拠とする熊襲国で、この時期、何らかの理由で国境紛争が起きていたのであろう。

二五〇年頃
『卑彌呼、以って死す。大いに冢(チョウ)を作る、徑百餘歩(フ)、殉葬する者、奴婢百餘人。
 更に男王を立てるも、國中服せず、更に相誅殺し、當時千餘人を殺す。
 復び卑彌呼の宗女壹與(イ・ヨ)、年十三なるを立て、王と為す。國中遂に定まる。
 政等、檄を以て壹與に喩して告ぐ。』(魏志倭人伝)

 卑彌呼の冢(墳墓)は円墳で、徑百餘歩(直径約26m前後)である。このサイズは漢の高祖の墓域と同じであり、当時の中国の王侯・貴族の墳墓の寸法に一致する。
 因みに、魏・晋朝において用いられた距離の単位は、極端な短里であり、「三国志」全編中の里数記事から推定するに、その一里は75~90mに相当するという。
 中国最古の天文算術書「周髀算経」(魏代成立)を復元すれば、その一里は76.6mになるという。(漢代の一里は、これの約六倍の451m)
 一歩は一里の三百分の一で、約25.5cmであった。
 壹與は、「壹」が姓で「與」が名で中国風の姓名である。

 ◎ 二六五年、「魏」滅亡(36年目)。「晋」建国。魏から禅譲。

二六六年
『壹與、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。因って臺に詣り、男女生口三十人を獻上し、白珠五千孔・青大句珠二枚・異文雜錦二十匹を貢す。』(魏志倭人伝)
 臺とは天子の宮殿を指す。
 壹與の貢献の時期は、倭人伝には明記されていないが、晋書によれば、晋の武帝の泰初二年(266)のことであるという。

四 新羅の北進
 新羅国は、かつて山と海に挟まれた狭隘な地域に立地していた。
 地形図を見れば判ると思うが、首都「金城」周辺を除けば平地が少なく、国家としてはまことに貧しかったと言わざるを得ない。
 この為、シンルとして建国以来、肥沃な地域を求めて、西へ北へと進出の機会を狙っていた。
 筑紫王朝やアマ国が健在の時代には、うかつに兵を動かすことが出来なかったが、それでも黄山江(洛東江)上流の山と山に挟まれた領域の小氏族を恫喝し、次々に傘下に入れていった。
 このように、多少のいざこざはあったにしても、朝鮮半島南部地域に於いては、中国の干渉も受けず、ましてや「「筑紫王朝」」の干渉も少なく、かなりの期間、平穏無事な歳月が流れていた。
 この間、旧宗主国たる「筑紫王朝」に対しては、任那を除いては年貢の納入という行為はなくなった。
 「年貢」は税として納めるもので、特別な場合を除けば、見返りはない。
 「朝貢」は年貢と異なり、朝貢貿易と言われるように、過分の返礼があり、大層儲かるものであった。又、相手国の朝廷に持参する物の他、積めるだけの貨物を持参し、相手国の港などで、交易も行い、利潤を獲得したものである。
 しかし、百済も新羅も、長い間、この有利な「朝貢」という方式を利用しなかったのではなかろうか。
 「年貢」の納入についても、「朝貢」に近い方式もあった。
 例えば、二八〇年、任那の南加羅國(金海)は蘇那曷叱知(ソナカシチ)を派遣して、現地の徴税官吏を通さずに年貢納入。これに対し、特例として、赤絹一百匹を持たせたとある。(垂仁二年)
 しかるに、新羅人、途中において道を遮り、これを奪うと言う事件を犯している。
 また、新羅王子、天日槍アマノヒホコの来日のように、個人の往来は頻繁に続いていたようだ。

 ◎ 三〇四年「漢」建国。南匈奴の劉淵、晋の成都王の指揮下にあったが、「晋」(司馬氏)の
  内紛に乗じて独立し、「漢」を建国。 (漢人の「漢」とは異なる)

五 高句麗・百済、再び独立(要図七 参照)
 この前後から、中国東北部や朝鮮半島での中国の勢力が弱くなった。
 その為、高句麗・百済・及び筑紫王朝は領地獲得の軍事行動を起こした。
 高句麗及び百済は、永らく中国直轄領内において雌伏していたが、三一三年、高句麗が、突如、楽浪・帯方以北の中国(晋)の出先機関を急襲。
 これに刺激されて、百済も北進し、韓江河口以東に於いて、高句麗と国境を接した。
 又、筑紫王朝も兵を出して、錦江以南のンマの領域を併合した。
 このあたりから、百済と高句麗との関係がきな臭くなる。
◎ 三一五年「代」建国。鮮卑拓跋部、東北の代に封じられていたが独立。



第三章 五胡十六国の時代

一 「晋」滅亡の影響
 ◎ 三一六年、「晋」滅亡(60年目)。
   「漢(匈奴)」長安を攻撃。晋の愍帝、降伏後、殺される。

 
  「晋」王朝滅びて、中国北部に於いて、五胡十六国の時代が始まる。
   (漢民族以外の政権の興亡の時代。「隋」による全国統一までの約270年間)

 ◎ 三一六年「前涼」建国。晋の涼州長官張軌、独立し、「涼」を建国。
 ◎ 三一八年「東晋」建国。
   「晋」の一族「司馬叡」が、建康(南京)において「晋」を再興。南朝と言われる。
   この王朝は、中国の南半部を一応勢力圏に置き、かなりの長期政権であった。(102年)
 ◎ 三一八年「前趙」建国。漢帝(匈奴)の劉淵の甥劉曜、国号を「趙(前趙)」に改正。
 ◎ 三二二年「後趙」建国。前趙の客將羯族の石勒は前趙から離脱し、「趙(後趙)」建国。
 ◎ 三二八年「前趙」滅亡。(24年目)
        後趙を十万の兵で攻撃するも反撃され、前趙帝劉曜、捕虜となり、殺される。
 ◎ 三三二年「前燕」建国。鮮卑慕容部、後趙に攻められるが、反撃して撃退、独立し国号

        を「燕」と称す。

三四六年、百済、肖古王即位。(三七五年薨)

 ◎ 三四九年「後趙」滅亡。(27年目)「前燕」に攻められ滅亡。
 ◎ 三五一年「前秦」建国。後趙の部将苻健(チベット系氐族)、後趙の滅亡に際して独立。


三五六年、新羅、奈勿尼師今王即位。(四〇二年薨)

 ◎ 三五七年「前燕」滅亡。(25年目) 前秦、前燕を攻撃して滅ぼす。

   「前秦」が中国北部の大部分を統一したが、高句麗を傘下に入れることは出来なかった。

二 古代の外交官等の所属
 日本書紀によれば、上古以来、第三十三代推古天皇に到るまでの六百年以上の長期間にわたって、少なくとも二十九回、朝鮮半島に外交使節もしくは将軍等を派遣しているが、その多くが「その姓を知らず」「名をもらせり」「他に見えず」「詳ならず」とある。
 王朝の代表としての外交官或いは派兵された将軍等重要な人物の、本人の名前も不確か、祖先も子孫も不明などと言うことがあり得ようか。
 少なくとも「神代編」においては、端役としか思えない人物ですら、「だれそれの祖なり」と注記されているではないか。
 これは、大和朝廷が自ら行った外交に関する事績が皆無であり、日本書紀編纂の時点で、それに関わる資料など有る訳はなく、筑紫王朝の資料を盗用したのに違いない。大化改新や壬申の乱の折りに、資料が消失したのだろうなどと言う「言い訳」は通用しない。
 従って、継体朝末期までの、中国や朝鮮半島に関する記事の、殆ど全ては「筑紫王朝」の記事と見て間違いなさそうである。
(該当する記事は、神功四十六年・四十七年・四十九年・六十二年、応神十四年・十六年・二十五年、仁徳十七年・四十一年・五十三年、雄略二年・八年・九年・二十三年、継体三年・六年・九年・二十三年・二十四年、宣化二年、欽明二年・四年・十四年・十七年・三十二年、敏達四年・六年・十三年、推古八年等にある)


 継体朝末期以降、推古朝初期までの記事は、主体が「筑紫」か「大和」か、判断が難しい。
 遣隋使や遣唐使が始まった時以降では、かなり正確に判断できる様になった。


三 新羅の膨張
三六六年
 倭国の倭王「旨」(後述)は、斯摩宿禰シマノスクネ(姓を知らず)を任那の卓淳國(大邱)に遣使。(神功四十六年)
 卓淳王末錦旱岐マキムカンキが言うには、一昨年(三六四)七月、百濟の使者久氐クテイ・彌州流ミツル・莫古マクコ三人が来て、貴國(筑紫)への道案内を依頼したという。
 そこで、斯摩宿禰はその供人の爾波移ニハヤと卓淳人の過古ワコの二人を百濟國に派遣した。
 百濟の肖古王、大いに喜び、使者に贈り物をした上で、寶藏を開き、「百済にはこのように珍宝がある。これらをもって筑紫王朝に朝貢したい」という。
 この事件は、百済や新羅にとって、極めて有利な取引が開始されるきっかけとなった。
 又、「筑紫王朝」にとっても、永い永い半島への干渉のきっかけとなった。

三六七年
 百濟王の使者久氐・彌州流・莫古の三人が筑紫王朝へと朝貢した。(神功四十七年)
 新羅國の調使も久氐等と共に到着。
 新羅の貢物が質量共に優れているのに較べて、百濟の貢物が貧弱なのを質問。
 百濟人曰く、道を間違えて、新羅人に囚われ、持参した貢物を取り上げられてしまい、代わりに新羅の貧弱なものと交換させられてしまった、と言う。
 そこで倭王は、事の真偽を確かめるため、千熊長彦チクマナガヒコ(姓を知らず)を使者とすることに決定した。
 この頃、新羅は任那の領域(黄山江流域)にかなり進出していたようで、筑紫王朝では、うかつにもその事実を知らないでいた。(派遣されていた徴税官吏も報告していなかったようである)
 新羅は、かねてから、黄山江流域の肥沃な地域を支配したいものと考えていた。
 そこで、婚姻政策、恫喝等、あらゆる手段を用いて、これらの諸氏族を傘下に入れる努力を続けていた。これらの氏族は、団結して対抗することもなく、なし崩しにされていた。
 これを、千熊長彦が現地に赴いて、そのかなりの部分を確認、新羅の背信を報告した。

四 倭兵、新羅を討つ (要図八 参照)
 筑紫王朝としては、400年も以前に、シンルが新羅として独立したことは許せても、筑紫王朝の直轄領たる任那の諸氏族を併呑することは許せない。

三六八年
 荒田別アラタワケと鹿我別カガワケを將軍とし、兵を率い(一千程度か)、久氐等と共に、卓淳國に至り、直轄領 「任那」を回復する為に、新羅を撃とうとするが、兵力不足につき、援軍を要請した。
 筑紫からは更に木羅斤資モクラコンシ(百済人)と、沙沙奴跪ササナコ(この二人姓を知らず)が精兵を率いて(二千程度か)来着。卓淳から討って出て任那の諸国に進出していた新羅兵を端から撃破した。     (半年以上を必要としただろう)

 その結果、黄山江(洛東江)に沿った地域の、卓淳(大邱)・喙國トクコク(慶山)・比自火ヒジホ(昌寧)・加羅(高霊)・多羅(陜川)・安羅(咸安)・南加羅(金海)の七ヶ国から新羅の勢力を駆逐して任那を回復した。
 更に南西方に移動して古奚津コケイノツ(康津)に至り、渡海して南蛮の忱彌多禮トムタレ(耽羅タムラ=済州島)を占領した。(神功四十九年)
 百濟の肖古王及び王子の貴須もまた兵を率いて來会した。
 倭王は、新羅の膨張を押さえる為にも、百済に力を付ける必要性を認めて、既に支配下に置いていた白村江(錦江)沿岸の、熊津コムナレ(布彌支フムキ=公州)、金堤ヘチュウ(辟中)、完山(全州・比利)、羅州(半古)といった地域を百済に与えることにした。
 百済王父子と倭の将軍等は意流村オルスキ(熊津付近)で会同。
 百濟王父子は喜び、厚く礼を述べて、荒田別・木羅斤資等を送り返した。
 ただ千熊長彦のみは百濟王と共に百濟國へ行き、外交交渉をした。
 この結果、百濟は、以後、長く朝貢することを約束し、千熊長彦を都にて厚くもてなした後、久氐を副えて送り返すことにした。

 討伐を受けた新羅としては、まことに不本意なことであり、爾後も、隙を見ては侵略を繰り返すことになる。

三六九年
 二月、荒田別等帰還。(神功五十年)
 五月、千熊長彦は久氐等を伴って百濟から帰る。
 倭王としては、百済は筑紫王朝の承認を得て、海西諸韓(熊津等)を既に傘下に入れたのに、何故、わざわざ久氐等が来たのかとの疑問を持った。
 それに答えて、百濟王が非常に喜んで、今後は長く朝貢するため、その旨を申しに来たという。
 倭王は喜んで、更に多沙城(タサノサシ)を与え、往還の路の驛とさせた。

三七〇年
 三月、百濟王、また久氐を派遣朝貢。その年、千熊長彦を答使として、久氐等が帰る時に百濟國へ派遣。(神功五十一年)
 九月、百濟の久氐等、千熊長彦に従い来朝貢献。七枝刀一口・七子鏡一面、及種々重寶。 
 この七枝刀の銘に、倭王「旨」の名前が明記されている。(神功五十二年)
☆ 七枝刀の銘文
『泰和四年(三六九)□月十□日丙午正陽、造百練鉄七支刀。□辟百兵、宜供供候王□□□□作。』(表)
『先世□来、未有此刃凸百済王世子、奇生聖晋、故爲倭王旨造。□□□世。』(裏)


三七一年、百済、漢城に奠都。

三七五年、百濟、肖古王崩御。貴須王即位。(三八四年薨)

 ◎ 三七六年「前涼」滅亡。(60年目)前秦、前涼を攻撃し滅ぼす。
 ◎ 三七六年「代」滅亡。(61年目)前秦、代を攻撃し滅ぼす。


五 新羅、再び背く
三八二年
 新羅が不遜な態度をとるので、筑紫王朝は、沙至比跪サチヒコ(姓を知らず)に兵を与えて征伐しようとするが、沙至比跪は新羅から美女二人の賄賂を受け、反対に加羅國(高霊)を攻める。
 加羅國王の己本旱岐コホカンキとその家族は、たまらず百濟へ逃げる。(神功六十二年)

 ◎ 三八三年「後涼」建国。前秦の部将呂光、西北部で独立し「涼」を建国。
 ◎ 三八四年「後燕」建国。前秦の客將鮮卑、慕容垂、独立し、「燕」を建国。


三八四年
 百濟、貴須王崩御。枕流トムル王即位。(三八五年薨)

三八五年
 百済、枕流王崩御。王子阿花アクエ年少。叔父辰斯シンシが王位を奪う。

 ◎ 三八五年「前秦」滅亡。(三十四年目) 「後秦」建国。
        前秦の部将姚萇(羌族)反乱し、前秦を滅ぼし「秦(後秦)」建国。
 ◎ 三八六年「北魏」建国。十年前滅ぼされた「代」の遺児拓跋珪、「代」を再興し、国名

        を「魏」とする。

三八九年
 加羅國王の妹の既殿至ケデンチが筑紫王朝に来て、沙至比跪の背反を倭王に訴える。
 倭王大いに怒り、木羅斤資に兵を与えて(三千程度か)渡海させ、加羅国に進駐している新羅兵を駆逐し、加羅国を救出し、その社禝を取り戻させ、沙至比跪の兵も収容した。
 沙至比跪は、こっそりと帰国したが、許されないことを知り、自殺。(神功六十二年)

三九〇年
 新羅、筑紫王朝との講和成り、王子未斯欣を質とす(三国史記・新羅)
     (この王子は、約28年後に、、朴堤上の犠牲により奪還されることになる)

六 高句麗による侵犯始まる (要図九 参照)
三九一年
 高句麗、好太王即位。

三九二年
 百濟の辰斯王、「筑紫王朝」の天皇に禮を失す。(応神三年)
 故に紀角宿禰キノツノノスクネ・羽田矢代宿禰ヤタノヤシロノスクネ・石川宿禰イシカワノスクネ・木菟宿禰ツクノスクネに兵を与えて派遣して問責。
 百濟國、辰斯王を殺して謝罪。紀角宿禰等、阿花王を立てて帰国。(四〇五年薨)

三九六年
 高句麗は百済の北辺を犯して去る。(好太王碑文)

三九七年
 百済の阿花王が「筑紫王朝」に禮を失した。
 故に枕彌多禮(済州島)及び任那北部との境界付近の蜆南ケンナム・支侵シシム・谷那コクの鉄鉱山地帯や東韓之地を没収した。(百済記)
 そこで、百済国王は王子の直支トキを派遣して、釈明させたが聞き入れられず、直支は証人(人質)として抑留される。

三九八年
 高句麗は、大軍を発し百済の東半部(現江原道から漢江上流地域)に侵攻し、領地とする。 (好太王碑文)

三九九年
 高句麗は、更に新羅北部(現慶尚北道北部から黄山江上流地域)に侵攻し、新羅兵を撃破する。
 その結果、新羅は、高句麗の傘下に付く。(好太王碑文)
 この事態を受け、倭王は兵力の不足を感じたのであろう、大和に多くの援兵を要請したものとみえる。
 大和は、仲哀天皇・神功皇后自ら兵を率いて筑紫に到着した。(少なくとも三千名程度か)
 仲哀天皇は、筑紫に所在する倭の兵力を過小評価し、筑紫王朝を併呑すべく、神功皇后や臣下の反対を押し切って筑紫王朝に攻撃を仕掛けた。
 しかし、急遽かき集めてきた兵は、統制がとれておらず、仲哀天皇の作戦指揮も余り旨くなかったと見えて、激戦の最中、天皇は戦死する。
 天皇戦死の後、副司令官の神功皇后は、やむを得ず降伏し、其の兵は、一時的に「筑紫王朝」の指揮下に入れられた。
 倭王は、大和の兵を含め、多くの兵を渡海させ安羅に駐屯させた。

四〇〇年
 高句麗は、新羅の要請に応じ、黄山江沿いに加羅・多羅の付近まで進出したが、倭国は安羅に駐屯中の倭兵をもって反撃し、激戦の末、これを撃破した。(好太王碑文)
 安羅駐屯軍の兵は、凱歌を挙げて筑紫へ凱旋した。
    (神功皇后は、この時点で御子を出産することになる)
 大和の兵は、任を解かれて、大和へと帰還することになった。

四〇二年
 新羅、奈勿尼師今王、崩御。實聖王、即位。(四一六年薨)

四〇三年
 弓月君ユツキノキミが百濟から来て、百濟の一二〇縣(高句麗に占領された漢江上流地域)から希望してきた人民の多数が帰化したいのだが、新羅に阻まれて、加羅國(高霊)に止まっているという。(応神十四年)
 そこで、使節として、葛城襲津彦カツラギノソツヒコを新羅に派遣するが、新羅は言を左右にして、事態は好転しない。
 やはり、武力を伴わない使節では、新羅を押さえることは無理である。

 ◎ 四〇三年「東晋」一時滅亡。 「楚」建国。
        西軍閥の恒玄、東晋安帝を幽閉し、禅譲の形で帝位を奪う。
 ◎ 四〇四年「楚」滅亡。 「東晋」再興。
        元北軍閥の劉裕、元北軍閥の将兵を再組織し、二月に兵を挙げ、五月「楚」 

       の恒玄を切る。 安帝、再び帝位に就く。

七 百済の反撃 
四〇四年
 百済は、帯方地域に攻勢をとって、高句麗の領内のかなり奥まで進出したが、逆に高句麗の大軍に反撃されて敗退。(好太王碑文)

四〇五年
 百濟阿花王崩御。
 倭王は人質の直支王を呼び「汝、国に帰って国王となれ。ついては、東韓之地と鉄鉱山地帯の甘羅城・高難城・爾林城を返してやろう」ということになった。(四二〇年薨)(応神十六年)

四〇六年
 八月、平群木菟宿禰ヘグリノツクノスクネと的戸田宿禰イクハノトダノスクネに精兵(二千名程度か)を与えて渡海させ、新羅急襲の構えを見せる。新羅王、驚き、弓月の民と襲津彦を返す。(応神十六年)

八 高句麗の侵犯続く (要図十 参照)
四〇七年
 高句麗は、百済首都北側地域に大挙して侵攻したが、百済の猛反撃により撤退。(好太王碑文)
                                        
四〇九年
 八月、百濟王は阿直伎アチキを派遣し、良馬二匹を貢ぐ。(応神十五年)
 阿直岐が百濟には王仁ワニというすぐれた学者が居るというので、荒田別アラタワケ・巫別カムナギワケを派遣して王仁を招聘することにした。

四一〇年
 二月、王仁、來る。 (応神十六年)                                                                   

 ◎ 四一〇年「後燕」滅亡(26年目)。
   東晋の劉裕、後燕を攻め、国王慕容超を切る。


四一〇年
 高句麗は、百済東部から東韓之地の深部にまで侵攻したが、百済の反撃により撤退。(好太王碑文)

四一一年
 九月、漢人の司馬曹達シバソウタツが中国国内の内乱を避け、隷下の部族十七縣の多数の人民を率いて帰化。
 倭王(讃)は、曹達に阿知使主アチノオミ、其の子に都加使主ツカノオミという倭名を与えた
          (応神二十年)

四一二年
 高句麗、好太王崩御。長寿王即位。(四九〇年薨)

九 「筑紫王朝」、中国南朝との外交を開始
四一三年
 倭国王「讃」、「東晋」に朝貢。
『倭国、貌皮・人参等を献ず、詔して細笙・麝香を賜う。』  (東晋安帝紀)
 中国北部の情勢は不安定なので、倭王は南部の政権と外交をすることになった。

四一五年
 九月、高句麗王の使者来朝。その上表に曰く、高句麗王「教日本國也」。太子(珍)、其の表を読み、高句麗の使者に怒り、この表は無禮であるとして、破り捨てた。(応神二十八年)

四一六年
 新羅、實聖王崩御。訥祇王即位。(四五七年薨)

 ◎ 四一七年「後秦」滅亡。(32年目)。
        東晋の宰相劉裕、後秦を攻め、国王姚泓を切る。

四一八年
 新羅は、朴堤上を派遣し倭から質人未斯欣を奪還す。(前述)



第四章 南朝との外交の時代

一 南朝劉宋との外交
 ◎ 四二〇年「東晋」滅亡(102年目)。 「劉宋」建国。
         東晋の宰相劉裕、東晋から禅譲のかたちで帝位を奪う。


 爾後、「筑紫王朝」は「東晋」に引き続き、「劉宋」に朝貢することになる。

四二〇年、百濟直支トキ王崩御。 久爾辛クニシン王即位。(四二七年薨)
 王年幼。木萬致モクマンチ摂政。王母と姦淫、無禮多し、倭王これを召還。(応神二十五年)
 木萬致は、木羅斤資が新羅討伐時、其國の婦に産ませた子。その父の功績により、任那で羽振りを利かせる。筑紫に度々来ていたが、政治が横暴なので、顰蹙を買っていた。

四二〇年
 二月、倭王「讃」は、阿知使主・都加使主を「劉宋」に朝貢の為に派遣、更に縫工女を求める事になった。(応神三十七年)
 阿知使主等、高句麗國に行き、劉宋への道案内を依頼。高句麗王は久禮波クレハ・久禮志クレシの二人を案内人として提供。
 宋の皇帝は、工女兄媛・弟媛、呉織、穴織の四婦女を派遣することになる。

四二一年
『高祖の永初二年、詔していわく、「倭讃、萬里貢を修む。遠誠宜しくあらわすべく、除授を賜うべし」』。  (宋書倭國傳)

四二三
 二月、宋国から使者帰還す。縫工女の一人、筑紫の宗像に置く。(応神四十一年)

二 「珍」の朝貢
四二五年
『太祖の元嘉二年、讃、また司馬曹達を遣わして表を奉り方物を献ず。』(宋書倭國傳)
 倭王「讃」崩御。「珍」即位。
『讃死して弟珍立つ。使を遣わして貢献し、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六國諸軍事、安東大将軍、倭國王と稱し、表して除正せられんことを求む。詔して安東将軍・倭國王に除す。珍、また倭隋等十三人を平西・征虜・冠軍・輔國将軍の號に除正せんことを求む。詔して並びにゆるす。』(宋書倭國傳)

四二七年
 百済、久爾辛王崩御。毘有ビユウ王(毗)即位。(四五五年薨)

四二八年
 二月、倭王(珍)、百済に使者派遣。従者五十人。(三国史記、百濟)

四二九年
 七月、高句麗國、鐵盾・鐵的を貢す。(仁徳十二年)

四三〇年
『元嘉七年四月、倭国王、使を遣わして方物を献ず。』(文帝紀)

四三二年
 新羅が不遜な態度をとる。九月、砥田宿禰トダノスクネ・賢遺臣サカノコリノオミが兵を率いて(三千名程度か)渡海し問責。新羅人、恐れて貢献。絹一千四百六十匹、及び種種の雑物。(仁徳十七年)

四三八年
『元嘉十五年、武都王・河南国・高麗国・倭国・扶南国・林巴国、並びに使いを遣わして方物を献ず。』(宋書文帝紀)
『元嘉十五年四月、倭国王珍を以て安東将軍と為す。』(文帝紀)

三 「済」の朝貢
 ◎ 四三九年、「北魏」が、五胡十六国の残存政権を悉く滅ぼし、中国北方地域の統一成る。

 「筑紫王朝」は、従来通り、南朝「劉宋」に朝貢を続ける。

四四三年
『元嘉二十年、倭国王(済)、使を遣わして奉献す。復た以て、安東将軍、倭国王と為す。』(宋書倭國傳)

四四四年
 三月、紀角宿禰キノツノノスクネを百濟に派遣、今まで曖昧であった百済と任那との境界を定める。
 書紀には、さらりと書いてあるが、「筑紫王朝」の直轄領の任那と百済との境界をはっきり定める為の、極めて重要な外交上の措置であった。(仁徳四十一年)

四五〇年
 新羅が不遜な態度をとる。(仁徳五十三年)
 五月、倭王は、竹葉瀬タカハセ・田道タジと兵を派遣(三千名程度か)して問責。
 新羅は兵を出して抗戦。これを討伐し、數百人を殺し、四邑の人民を捕虜にして帰還。

四五一年
『元嘉二十八年七月、安東将軍倭王「倭済」、安東大将軍に進号す。』(文帝紀)
『使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六國諸軍事を加え、安東将軍は故の如く、ならびに上る所の二十三人を軍郡に除す。』(宋書倭國傳)

四五二年
 十月、「劉宋」の使節到着。高句麗國の使者を随伴。(仁徳五十八年)

四五五年
 百済、毘有王ビユウオウ崩御。蓋鹵王カフロオウ(慶)即位。(四七五年薨)
 倭王(済)は、阿禮奴跪アレナコを派遣、身分或る女性を求める。百濟は慕尼夫人ムニハシカシの娘を装いさせ、適稽女郎チャクケイエハシトと名付け、倭王に奉った。(雄略二年)

四五七年
 新羅、訥祇王崩御。次の王即位。()
 史書には記されていないが、この頃、新羅では、高氏から金氏へと政権移譲が為されたではないかと思う。

四五八年
 七月、百濟の池津媛(適稽女郎)、倭王のお召しに違い、石川楯イシカワノタテと婬タハける。倭王大いに怒り、大伴室屋大連オオトモノムロヤノオオムラジに命じ、二人の四肢を磔にし、焼き殺した。(雄略二年)

四六〇年
『大明四年十二月、倭国(済)、使を遣わして方物を献ず。』(孝武帝紀)

四六一年
 四月、百濟の蓋鹵王は、池津媛(適稽女郎)が焼き殺されたことを聞き、今後は女性を贈るなと厳命。(雄略五年)
 弟の昆支コニキに、「筑紫王朝」に行って天皇に仕えよと云う。
 昆支はなぜか蓋鹵王の妃の一人(妊娠して臨月)を帯同して「筑紫王朝」に向かうが、妃は慣れぬ旅の為、船酔いに苦しみ、途中の島で、出産する。この子を嶋君と名付ける。     
 後の武寧王である。

四 「興」の朝貢
四六一年
 倭王「済」崩御。世子「興」即位。使を遣わして貢献す。

四六二年
 四月、劉宋の使者至る。(雄略六年)
『世祖の大明六年、詔していわく、「倭王世子興、奕世載ち忠、藩を外海に作し、化を稟け境を寧んじ、恭しく貢職を修め、新たに辺業を嗣ぐ。宜しく爵号を授くべく、安東将軍・倭國王とすべし」と。』(宋書倭國傳)

五 背反常なき「新羅」  (要図十一 参照)
四六四年
 新羅は日本に誼を通ぜず、高句麗と通ず。高句麗は、兵を出して新羅を守る。
 新羅、進駐していた高句麗兵を誤って皆殺しにする。
 高句麗、怒って新羅に兵を進め卓淳付近に至る。(雄略八年)
 新羅、やむを得ず「筑紫王朝」に救いを求める。
 安羅駐屯中のの将軍膳臣斑鳩カシワデノオミイカルガ・吉備臣小梨キビノオミオナシ・難波吉士赤目子ナニハノキシアカメコは加羅・多羅とともに兵を出し、新羅を助ける。
 十数日の対陣の後、主力を伏兵として埋伏した後、偽って後退し、追ってきた高句麗兵を伏兵で挟み撃ちにし、撃破した。
 
四六五年
 三月、新羅が再び「筑紫王朝」に不遜な態度をとるので、倭王は紀小弓宿禰キノオユミノスクネ・蘇我韓子宿禰ソガノカラコノスクネ・大伴談連オオトモノカタリノムラジ・小鹿火宿禰オカヒノスクネ等に新羅討伐を命じた。(雄略九年)
 紀小弓宿禰等、任那に渡り、先ず、喙国の地を取る。次いで追撃して、敵將を斬る。
 更に残敵を追って戦うが、大伴談連と紀岡前來目連キノオカザキノクメノムラジは戦死し、大將軍紀小弓宿禰もまた病死するに及び戦いは引き分け。
 五月、紀大磐宿彌キノオオイワノスクネは、父が病没したのを聞き、任那に渡り、小鹿火宿禰が掌握していた兵を取り上げたため、小鹿火宿禰と大磐宿禰は仲違いし、韓子宿禰を含め、互いに争ったため、新羅討伐の目的も果たさず帰還した。韓子宿禰は途中で命を落とした。大磐宿禰は残留した。 (雄略九年)

四六七年
 紀大磐宿禰、任那に拠って高句麗と結び、三韓の王に成ろうとして、官府を整え、自ら 神聖と唱え、百濟の代官を殺し、帯山城を築く。(百済と任那の境界付近)
 百濟の蓋鹵王大いに怒り、古爾解コニゲ・内頭莫古解ナイトウマクコゲ等を派遣して帯山を攻める。激戦の末、百濟が勝ち、紀大磐宿禰は筑紫に逃げ帰る。(顕宗三年)

六 高句麗、百済の王城を奪取 
四七五年
 冬、高句麗王は大軍を以て百濟を襲う。(雄略二十年)
 高句麗軍、七昼夜の攻城の末、ついに漢城を陥し、蓋鹵王・大后・王子等、皆敵手に墜ちた。その結果、漢江以北の領地を奪われてしまう。

四七六年
 三月、倭王(興)は、百濟が高句麗に敗れたことを聞き、久麻那利クマナリ(熊津)の地を首都とする様助言し、紋洲王モンスオウ(牟都)に其國を救わせようとした。 (雄略二十一年)

四七七年
 百済の紋洲王、十三歳で即位。(四七九年薨)
 二月、倭王(興)は身狭村主青ムサノスグリアオと檜隈民使博徳ヒノクマノタミノツカイハカトコを劉宋に派遣。(雄略九年)
『昇明元年、倭国、使を遣わして方物を献ず。』(順帝紀)
 九月、劉宋への使者、身狭村主青等、筑紫へ帰還。(雄略十年)
 倭王「興」崩御。「武」即位。
『興死して弟武立ち、自ら使持節・都督、倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・七国諸軍事、安東大將軍・倭国王と称す。』(宋書倭國傳)

七 「武」の朝貢
四七八年
 四月、身狭村主青・檜隈民使博徳、劉宋へ再び遣使出発。(雄略十二年)
『昇明二年五月戊午、倭国王武、使を遺わして方物を献ず。武を以て安東大将軍と為す。』(順帝紀)                                                 
『順帝の昇明二年、使を遣わして表を上る。いわく、「封國は偏遠にして、藩を外に作す。昔より祖禰(ソデイ)躬ら甲冑を擐(ツラヌ)き、山川を跋渉し、寧処に遑(イトマ)あらず。東は毛人を征すること五十五國、西は衆夷を服すること六十六國、渡りて海北を平ぐること九十五國。王道融泰にして、土を廓(ヒラ)き畿を遐(ハルカ)にす。累葉朝宗して歳に愆(オコタ)らず。臣、下愚なりといえども、恭なくも先緒を胤ぎ、統ぶる所を駆率し、天極に帰崇し、道百済を遥て、船舫を装治す。しかるに句驪無道にして、図りて見呑を欲し、辺隷を掠抄し、虔劉(ケンリュウ)して已まず。毎に稽滞を致し、以て良風を失い、路に進むというといえども、あるいは通じあるいは不らず。臣が亡考済、実に寇讐の天路を壅塞するを忿り、控弦百萬、義声に感激し、方に大挙せんと欲せしも、奄かに父兄を喪い、垂成の功をして一簣を獲ざらしむ。居しく諒闇にあり、兵甲を動かさず。これを以て、偃息して未だ捷たざりき。今に至りて、甲を練り兵を治め、父兄の志を申べんと欲す。義士虎賁文武功を効し、白刃前に交わるともまた顧みざる所なり。もし帝徳の覆載(フクサイ)を以て、この彊敵(キョウテキ)を摧(クジ)き克く方難を靖んぜば、前功を替えることなけん。窃(ヒソ)かに自ら開府儀同三司を仮し、その餘は咸な仮授して、以て忠節を勧む」と。詔して武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六國諸軍事、安東大将軍、倭王に除す。』(宋書倭國傳)

四七九年
 正月、身狭村主青等、「劉宋」の使者を伴って帰朝。織物工・仕立工を随伴。
『建元元年、「武」進めて新たに使持節都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓六国諸軍事安東大将軍・倭王武に除し、号して鎮東大将軍と為す。』(宋書倭國傳)
 この劉宋の使者は、帰国した時には、政権が替わってしまっていた。

◎ 四七九年「劉宋」滅亡(59年目)。 「南斉」建国。
        劉宋の部将蕭道成、劉宋を滅ぼし、「斉」建国、初代皇帝として即位。


四七九年
 四月、百濟文洲王崩御。東城王(末多、牟太)即位。(五〇一年薨)
 倭王(武)は、昆支王の第二子末多に、筑紫國の軍士五百人を与え、國に送り返した。
 是の歳、百濟朝貢したが、通常より多くを納めた。
 筑紫の安致臣アチノオミ・馬飼臣ウマカヒノオミ等(未詳)、船師を率いて高句麗を撃つ。(雄略二十三年)
 仁川付近に上陸し、所在の高句麗軍を撃破し、「漢城」奪還を図ったが、百済との連携に失敗し、やむを得ず撤退する。(要図十二 参照) 

四八九年
 日鷹吉士(未詳)を高句麗に遣使。(仁賢六年)

四九〇年
 高句麗、長寿王崩御。 次の王即位。

四九三年
 倭王「武」崩御。 「年」即位。
 新羅王、これを聞き、船八十艘、及び種々楽人八十を送り、對馬にて大哭。更に筑紫に至って或いは哭泣、或いは歌。遂に殯宮に参会した。(允恭四十二年)

 ◎ 五〇二年「南斉」滅亡(23年目)。「前梁」建国。
        宰相蕭衍、南斉から禅譲され、即位。


五〇二年
『天監元年、鎮東大将軍倭王武、進めて征東将軍と号せしむ。』(前梁武帝紀)
        武は、既に九年前に崩御

五〇二年
 百濟の東城王は無道、百姓に暴虐。國人、遂に除き、嶋王を立て、武寧王とする。
       (五二三年薨)(武烈四年)

五〇三年
 百済嶋王(武寧王)、倭王「年」の為に鏡を造らせ贈る。(鏡の銘文に明記)
 『癸未年(五〇三)八月、日十大王ヒトダイオウ・男弟王、意柴沙加宮イシサカノミヤにあり。時に斯麻シマ、長泰を念じ、開中費直・穢人の今州利の二人等を遣わし、白上同(銅)二百旱を取り、此の竟(鏡)を作らしむ』



第五章 日本列島及び朝鮮半島の勢力圏の変動

一 新羅の北進 (要図十三 参照) 
五〇四年
 十月、百濟國は麻那君マナキシを派遣して貢献するも、百濟は歴年貢物を持ってこな
かったことを怒り、使者を抑留して返さず。(武烈六年)

五〇五年
 新羅は北方に地歩を拡大、悉直(三陟)に至る。
 百濟王は斯我君シガキシを派遣。前年の使者麻那君は、百濟國主の骨族ではないので、改めて派遣し朝廷に仕えさせることにした。(武烈七年)

五一二年
 新羅は更に北方に地歩を拡大、何瑟羅(注文津)に至る。
 
五一四年
 十二月、南海中耽羅人(済州島)、 初めて百濟國に通う。(継体二年)

五一五年
 二月、久羅麻致支彌クラマチキミ(未詳)を百濟に遣使。任那の縣邑に居る百濟の百姓の浮逃絶貫の、三四世者を抜き出して、百濟に移し返した。(継体三年)

二 筑紫王朝、国力の消耗
 高句麗によって百済は北半部を奪取され、「筑紫」は、これの救援と新羅に対処する為、国力をかなり消耗していた。
 さりとて、等閑には出来ず、度々兵を派遣していた。
 そこで、大和に援兵を要請したものとみえる。
 大和政権からは全権大使として、大伴金村大連オオトモノカナムラノオオムラジが派遣されて来た。

五一六年
 四月、倭王は、穂積臣押山ホヅミノオミオシヤマを百濟に派遣、任那南西部の哆唎タリ
の代官とする。筑紫國の馬四十匹を賜う。(継体六年)
 十二月、百濟の武寧王、遣使貢調。
 別に上表して旧百済領の上哆唎オコシタリ・下哆唎アルシタリ・沙陀サダ・牟婁ムロ、四縣を割譲願いたいと要請する。
 哆唎國守の穂積臣押山は、それがよいと具申する。大和の大伴金村大連も、同調して副申する。
 よって、その四県は百済領となる。
 世間では、穂積臣押山と大伴大連は、百濟から賄賂を貰ったのだろうと言う。(継体六年)

五一七年
 六月、百濟は姐彌文貴サミモンキ將軍・州利即爾ツリソニ將軍を派遣し、筑紫の穂積臣押山に副えて五経博士段楊爾ダンヨウニを奉る。(継体七年)
 別に奏して言うに、伴跛ハヘ國が己汶コモンの地を奪取したので、これを百済の兵を使って奪回させてほしいと要請。
 任那北部の伴跛は、鉄鉱山の大部を保有している利を生かして、いつの間にか経済力を付け、加羅・卓淳をも併合する勢いを示し、かなりの地域を得ていた。
 十一月、倭王は、朝廷に於いて、百済の姐彌文貴將軍、新羅の汶得至モントクチ、安羅の辛己奚シンイケイ及び賁巴委佐フンハワサ、伴跛の既殿奚コデンケイ及び竹汶至チクモン等に、「己汶及び滞沙を百済に与える」と宣言する。
 伴跛國は、先に戢支シフキという使者を派遣して珍寶を奉って、己汶をねだっていたが、与えず。(継体七年)

五一八年
 三月、伴跛は己汶東側の山に築城し、子呑シトン・帯沙タサ・満奚マンケイと連接し、
烽火台・邸閣を置き、「筑紫王朝」に備えた。
 また卓淳北方山地の爾列比ニレヒ・麻須比マスヒに築城し、麻且奚マショケイ・推封スイフに連接し、兵士兵器を集め、新羅にも備えた。(継体八年)

五一九年
 二月、百濟の使者、文貴將軍等帰国。物部至々連モノノベノチチレ(名不詳)を副えて帰す。(継体九年)
 物部連は、沙都嶋(サトセマ、巨濟島)に至って、伴跛人が暴虐無惨に振る舞っていることを聞き、舟師五百を率いて、帯沙江(蟾津江)河口へ直行する。(継体九年)
 文貴將軍は、新羅から別便で帰った。
 四月、物部連は帯沙江を遡上して己汶に至り、六日間滞在したところへ伴跛の急襲を受けて撃破された末捕虜になり、被服等をはぎ取られ、文慕羅島モンモラセマ(帯沙江の中州)へ追いやられた。
 五月、百濟は前部木刕不麻甲背ゼンホウモクラフマカウハイに兵を与えて派遣し、己汶に進出している伴跛を急襲撃破、物部連等を救出して己汶に出迎え、百濟国内へと連れ帰る。(継体十年)
 九月、百濟、州利即次ツリソシ將軍を派遣、物部連に副えて来朝、己汶之地を賜ったことを謝す。
 別に、百濟は灼莫古ヤクマクコ將軍・倭国の斯那奴阿比多シナノノアヒタを派遣、高句麗使安定アンテイ等を副えて、好を結ぶ。(継体十年)

五二三年
 五月、百濟、武寧王崩御。(三国史記)

五二四年
 正月、百濟、聖明王即位。(五五四年戦死)(三国史記)

五三一年
 三月、高句麗は、自ら王を殺す。香岡上王即位。(五四五年薨)

五三一年
 三月、「筑紫王朝」は、軍を進めて、安羅に至り、乞乇城コットクノサシを造る(継体二十一年)

三 大和朝廷による筑紫王朝への侵略
五三一年
 六月、大和朝廷は、筑紫王朝が弱体化したことを確認し、近江毛野臣オウミノケナノオミに六萬の兵を与え、筑紫に進駐させた新羅に侵攻された喙己呑クコトン(釜山付近)・金海を復興させることを名目とした)(継体二十一年)
 七月、大和朝廷の継体天皇は、筑紫王朝(磐井君)打倒を決意、物部麁鹿火大連モノノベノアラカヒノオオムラジを総大将にすることを決定。(継体二十一年)
 八月、物部麁鹿火大連に出動命令を下す。天皇自ら斧鉞を授け、「長門から東は朕が取る。筑紫から西は汝が取れ。」と言う。(継体二十一年)
 十一月、大將軍物部麁鹿火大連は、筑紫に至り、先に派遣した六万の兵を掌握し、筑紫を急襲し、筑紫御井郡にて倭王(磐井)と戦い、遂に磐井を斬る。しかし、御子の一人筑紫君葛子の反撃により、それ以南には進めなかった。(継体二十二年)
 十二月、筑紫君葛子、糟屋の地(福岡市東側)を賠償として差し出し、講和成る。(継体二十二年)
 この頃、筑紫王朝では既に自らの国を「日本」と名乗り、大王のことを「天皇」と称していたことは、上記の事件を伝えた「百済本記」に明記してある。

四 三王朝併立の時代
 合戦に敗れた「筑紫王朝」は、しばらくの間、占領軍の言いなりになる他はなかった。
     (少なくとも十年間)
 只、大和朝廷(継体~崇峻天皇の約六十五年間)は、朝鮮半島の処置については度々口を挟むが、中国との外交には興味を示さなかったようである。
 表だった華々しい動きは見えないが、「葦原王朝」は健在で、「大和王朝」や「筑紫王朝」とは、互いに干渉せずに、三王朝併立の状態が続く。

五三二年
 三月、百濟の聖明王は哆唎國守穂積押山臣に、朝貢の度に海上風波に悩まされるので、南加羅の多沙を、朝貢の爲の発進地として頂きたいと願う。(継体二十三年)
 押山臣、この旨を大和朝廷の全権大使に上申する。
 是の月、大和の全権大使は、筑紫の物部伊勢連父根・吉士老(キシノオキナ)等を派遣し、港を百濟王に賜う。その港の所有者の南加羅王が猛然と反発し、新羅と結ぶ。(継体二十三年)

五 無能な官吏の派遣により、目的は達成できず
 「任那」は、本来「倭国」の直轄地であり、新羅による侵略には、「倭国」ひいては「大和」が自ら対処すべきものであるが、「大和」は、百済、新羅をも属国であると誤解していた気配が濃厚である。
 この為、大和は任那(安羅もしくは鎮海付近か)に常駐の官吏(任那日本府)を置くと共に、百済に対し任那復興を強要することになる。

五三二年
 三月、大和は、近江毛野臣を特使として安羅に派遣。勅を新羅に見せ、金海・喙己呑を再建することにした。(継体二十三年)
 百濟は將軍三人を派遣したが、新羅は金海・喙己呑を侵略したことを追及されるのを恐れて、 大人は派遣しなかった。
 安羅は新に高堂を建て、勅使(近江毛野臣)を迎えた。任那の各國主に随って國内の大人も昇堂を許された者が居るのに百濟の將軍等、堂の下に置かれた。
 およそ数ヶ月、堂々巡りの協議は繰り返されたが、将軍たちは、常に庭におかれ、協議へ参加させられなかったことを恨んだ。
 四月、任那の王の一人(鎮海王か)己能末多干岐(コノマタカンキ)が筑紫に来て、九州駐屯中の大伴金村大連に、新羅がしばしば越境して任那を犯すので、助けてくれと要請する。(継体二十三年)
 大伴大連は己能末多干岐を送らせるとともに、任那に居る近江毛野臣に命じ、互いに和解するように努めよと命じた。
 毛野臣は、大国の権威を振りかざして、熊川クマナレ(鎮海)に新羅と百濟の王を招集したが、二國共、王自らは来なかったので、毛野臣は大いに怒り二國の使者をなじった。
 新羅は改めて伊叱夫禮智干岐イシブレチカンキに二千の兵をつけて派遣したので、これを見た毛野臣は恐れて己叱己利城コシコリノサシ(鎮海の山城)へと逃げこんだ。
 伊叱夫禮智干岐は多々羅原タタラノハラ(金海付近)にて三か月、勅を聞こうと要請して待ったが、遂に勅を聞かせなかった。伊叱夫禮智干岐は怒って、金海一帯を荒らして帰る。(継体二十三年)
 この近江毛野臣という官吏は、以前にも倭王(磐井)に対し、大和の権威をひけらかして争ったこともあり、「虎の威を借る輩」の一種であったようである。

五三三年
 九月、己能末多干岐の使者は筑紫に至り、毛野臣の無能なるを知らせる。
 大伴大連は、筑紫国の調吉士ツキノキシを派遣して、毛野臣を召還するが、つべこべ言うばかりで帰還せず。己能末多干岐も帰還することを勧めるが、聞かない。
 己能末多干岐は新羅と百済に要請して、兵を出させるが、毛野臣は籠城してがんばる。
 新羅と百済の兵は、その付近を荒らして去る。(継体二十四年)
 十月、調吉士が任那より帰還し、毛野臣の不適当な行状を報告する。
 大伴大連は、筑紫の目頬子メヅラコを派遣して、毛野臣を召還する。(継体二十四年)
 毛野臣は、渋々召還に応ずるが、帰途、対馬にて病を得て死亡。

五三四年
 二月、天皇病甚し。丁未、天皇磐余玉穂宮にて薨去。年八十二。(継体二十五年)
 十二月、藍野陵に葬る。
 或本云、天皇(継体)、二十八年歳次甲寅崩。(正しい)
 而して此は云う、二十五年の崩御は、百濟本記に基づき文を爲す。
 又聞、日本天皇(磐井)及太子皇子、倶崩薨。由此而言、辛亥之歳、當二十五年矣。
   後勘校者、知之也。(「磐井」の戦死)

五三四年
 五月、百濟、下部脩徳嫡徳孫チャクトクソン・上部都徳己州己婁コツコマ等を派遣、上表して朝貢。(百済本記)

 ◎ 五三五年「北魏」滅亡(百四十九年目)。
       「東魏」建国。北魏重臣高歓、孝武帝を長安に追い、孝静帝を立て、鄴に遷都。
       「西魏」建国。北魏武将宇文泰、北魏孝武帝を長安で暗殺。文帝即位。
   




第六章 任那の運命

一 百済は「大和」と「筑紫」の両方に援兵を要請
五三七年
 十月、大和は、大伴金村大連の子の大伴磐イハを大伴大連の後任として、全権大使とし、大伴狭手彦サテヒコを任那に派遣して、新羅から救わせる処置を執る事にした。

五三八年
 百済、夫餘(泗比)に遷都。

五四〇年二月、百濟人己知部(コチフ)帰化。(欽明元年)
 八月、高句麗・百濟・新羅・任那、並遣使獻、並脩貢職。(欽明元年)
 九月、欽明天皇、新羅討伐について諮問。
 物部大連尾輿ヲコシ等、「少しばかりの兵力では実行不可能」と答える。(欽明元年)

五四一年
 四月、安羅・加羅・卒麻ソチマ・散半爰サンハンゲ・多羅・斯二岐シニキ・子他シタの主要な者たち、任那駐在官(任那日本府・大和)の吉備臣(不明)と共に百濟におもむき、詔書を聞く。百濟聖明王が議長となり。「如何にして任那を復興すべきか」を協議する。(欽明二年)
 七月、百濟の聖明王は、安羅駐在官(安羅日本府・筑紫)の河内直・阿賢移那斯(アケンイナシ)・佐魯麻都(サロマト)(未詳)が新羅と通謀していると聞き、家臣を安羅に派遣し、これを深く戒めると共に、百済が後押しするから、新羅に奪取された金海・碌己呑トクコトン(釜山)等を取り戻す努力をせよと促す。
 また、聖明王は更に任那駐在官(大和)にも、金海・碌己呑等を取り戻す努力をせよと促す。
 七月、百濟は家臣を大和に派遣し、下韓・任那の現状を大和に報告した。(欽明二年)

五四三年
 四月、百濟の使者、帰国。(欽明四年)
 九月、百濟聖明王、使者を使わして朝貢。(欽明四年)
 十一月、欽明天皇は津守連ツモリノムラジ(未詳)を百済に派遣し、「百済は任那を復興するといいながら十餘年にもなる。早く復興の実をあげよ」と催促する。(欽明四年)
 十二月、百濟聖明王、家臣たちと任那復興の策を練る。河内直・阿賢移那斯・佐魯麻都等が安羅にいたのでは任那の再興は困難なので、筑紫に申請して本国に引き取ってもらうのがよい、と結論。(欽明四年)
 是月、聖明王は家臣を派遣して、大和と筑紫の駐在官を招致するが、いずれも、正月が過ぎたら行くと答える。(欽明四年)

五四四年
 正月、百濟國は使いを派遣し、大和と筑紫の駐在官を招致するが、いずれも、祭りが終わったら行くと返事する。
 この月、百濟は重ねて遣使、大和と筑紫の駐在官を招致するが、大和も筑紫も、共に駐在官は来ないで、走り使いをよこしたため、任那復興の協議はできなかった。(欽明五年)
 二月、百濟は家臣を派遣して、大和と筑紫の駐在官に非協力的であることをなじる。これに対して、つべこべ言って、はぐらかす。
 三月、百濟は家臣を大和に派遣して、大和と筑紫の駐在官が、百済に協力しないので、任那の復興は難しいと訴える。(欽明五年)
 十月、百濟の使人帰国する。
 十一月、百濟は遣使、大和と筑紫の駐在官に、日本に派遣した使者が帰ったことを告げ、共に詔勅を聞き、任那について協議しようと図る。
 大和の駐在官の吉備臣、筑紫の駐在官の河内直、加羅・卒麻・斯二岐・散半爰・多羅・子他・久嵯等の代表者は、百済に参集。
 百濟聖明王は、詔書を示し、「早く任那を建てよと言われる。いかにすべきか」と問う。
 吉備臣や任那の代表者たちは、聖明王の考えを聞きたいという。
 聖明王は三つの案を出す。「一つ、新羅と安羅の国境に大きな川(黄山江)があり、ここに六つの城を築き、天皇に三千の兵を要請して守らせる。二つ、南韓(金海・鎮海)に郡領・城主を新に設けて、新羅からの圧迫を防ぎたい。三つ、吉備臣・河内直・移那斯・麻都の四人は本国に帰って、実情を申し上げるべし。
 吉備臣等は、帰国のチャンス到来と喜び、吉備臣をも含めて、代表者たちは、この案に賛成した。(欽明五年)

五四五年
 三月、膳臣巴提便(ハスヒ)を百濟に遣使。(欽明六年)
 五月、百濟、奈率其陵コリョウ・奈率用奇多ヨウガタ・施徳次酒シシュ等を遣わし上表。
 九月、百濟、任那に遣使、大和や筑紫の駐在官及び諸旱岐に贈り物する。

五四五年
 高句麗、宮廷内に乱れあり。是年、高句麗国内大亂、およそ闘死者二千餘。
 百濟本記云、高句麗は、正月に、中夫人の子を王と爲す。年八歳。
 高句麗王には三夫人が有り、正夫人には子はなし。中夫人は世子を生む。其舅氏は麁群ソグン也。小夫人も子を生む。其舅氏は細群サイグン也。
 ここに高句麗王病重し。麁群・細群、それぞれの出身の子を太子にしたく思う。
 十二月、高句麗國の麁群と細群、宮門に戦う。三日間の戦いの後、細群の子孫悉く捕らえられ、細群の死者、二千餘人也。
 高句麗國の安原王(香岡上王)は崩御。(欽明六年)

五四六年
 正月、百濟使人帰国。よって、良馬七十匹・船百十隻を賜う。(欽明七年)
 六月、百濟、朝貢。

二 高句麗、西海岸沿いに馬津まで侵攻
五四七年
 四月、百濟、眞慕宣文シイモセンモン・奇麻キマ等を大和に派遣し援軍を要請。(欽明八年)

五四八年
 正月、百濟の使者「要請された援軍は必ず送る」との確約を得て帰国。(欽明九年)
 正月、高句麗は、馬津付近まで侵攻したが、百済は勇戦敢闘して撃退する。(欽明九年)
 四月、百濟は中部杆率掠葉禮ケイセフライ等を大和に派遣して「援軍はかたじけないが、馬津城の役における捕虜の言によれば、大和と筑紫の駐在官が高句麗に百済侵攻を勧めたという。よって、援軍派遣はしばらく待った方がよい。」と言う。
 六月、百濟に遣使。「百済の使者が帰った後の情報を知らせよ。高句麗が攻め込んだと聞くが、任那と協力して防戦せよ」と宣う。
 閏七月、百濟使人掠葉禮等、帰国。
 大和の天皇は「大和と筑紫の駐在官によく申し聞かせるので、協力して高句麗の侵攻を防げ。」と宣う。
 十月、倭王は、三百七十人を百濟に派遣、得爾辛トクニシ(熊津の北方か)の築城を援助させる。

五四九年
 六月、百済の使者將徳久貴コンキ・固徳馬次文メシモン等は、大和の天皇から「大和と筑紫の駐在官が高句麗と通謀したか否かを確かめるまで、援兵派遣はしばらく止める」旨聞いて帰国。 (欽明十年)

 ◎ 五五〇年「東魏」滅亡(十六年目)。 「北斉」建国。
        高洋、東魏から禅譲され、文宣帝として即位。

五五〇年
 二月、大和、百濟に遣使。(欽明十一年)
 四月、百濟への大和の使者帰国。百済、高句麗の捕虜を天皇に贈る。
 八月、大和は大將軍大伴連挾手彦に、筑紫駐在の多数の兵(少なくとも五千名程度か)を授けて百済に派遣。

三 高句麗に対し、大和・百済・新羅・任那連合軍進攻 (要図一四 参照)
五五一年
 三月、大和は、百濟王に麥種一千斛を贈る。(欽明十二年)
 百濟聖明王、自ら、大和の援兵・百済・新羅・任那の兵を率い、高句麗を攻め、漢城を奪回。又、進軍して平壌(北漢城)を討つ。凡そ六郡の土地を取り返した。
 大伴挾手彦と軍は、一件落着の気分で、新羅に対処することを忘れ、筑紫に凱旋してしまった。
十一月、新羅は、百済の虚を衝き、伴跛を急襲撃破して傘下に納めた。
 更に降伏した伴跛の兵を先鋒として、百済東部に進駐していた高句麗軍を急襲して撃破した。
 しかし、この合戦で、先鋒にされた伴跛の兵は甚大な損害を被り、爾後、伴跛は自らの力で伴跛を復興する力を失い、遂に新羅に併呑される。

五五二年
 五月、百濟・加羅・安羅は、使者を大和に派遣、援軍を要請。
 曰く「高句麗と新羅は通謀して百済と任那を攻めようとしている。」(欽明十三年)
 十月、百濟聖明王、大和に遣使、釋迦佛金銅像・幡蓋若干・誑論若干巻を送呈。
 是歳、百濟は、なぜか漢城および平壌(北漢城)から撤退。
 そこで、新羅が一時的に漢城に入る。新羅は更に兵を動かして、漢江上流地域を席捲した。この地域は、山岳地帯であり、小氏族が散在しているだけであった。
 これに対して、百済は何もすることが出来なかった。

四 新羅の裏切り (要図一五 参照)
五五三年
 正月、百濟が「筑紫王朝」に援兵を要請。(欽明十四年)
 六月、倭王は、内臣ウチノオミ(未詳)を派遣することにして、「援軍は百済王の思うままに使ってよし」と言わせる。
 また、「醫博士・易博士・暦博士等、交代の時期なので、代わりの人を派遣されたし。併せて、ト書・暦本・種々の藥物を送られたし」
 八月、百濟は上部奈率科野新羅シナノシラキ・下部固徳汶休帯山モンキュウタイセン等を大和にも派遣し、援兵を要請した。
十月、百濟の王子餘昌ヨショウは、國中の兵を集め、高句麗國に向かい、百合野の砦を築き、兵士と寝食を共にする。ここで敵の勇将を討ち取り、勢いに任せて追撃し、高句麗兵を北漢城の北へ追い、北方国境を回復した。

五五四年
 正月、百濟は使者を筑紫に派遣し、「約束の援軍は、何時、何人が得られるのか、正月中に来て欲しい」と言う。(欽明十五年)
 即ち、一千人と馬百匹、船四〇艘と答える。
 二月、百濟は下部杆率將軍三貴サムキ・上部奈率物部烏モノノベカク等を大和にも派遣し援軍を要請。
 三月、筑紫への百濟使人(正月に来た)帰国。
 五月三日、筑紫の内臣は舟師を率いて百濟に出発。
 十二月、百濟は使者を筑紫に派遣、戦況を報告。日本の援軍が六月に来て、まことに心強いが、相手が新羅だけなら何とかなるが、高句麗と結託しているので、もっと多くの援軍が欲しいと言う。
 聖明王は、王子餘昌が完山東方に侵入している新羅の討伐に深入りしていたが、これを慰問に来たところを新羅の猛反撃に遭い、戦死した。王子餘昌は囲みを破って脱出した。

 ◎ 五五四年「後梁」建国。 「西魏」、亡命中だった前梁の元皇孫を帝位に就け、首都を江陵とする傀儡政権を作った。

五五五年
 二月、百濟の王子餘昌は、王子恵を筑紫に派遣し、聖明王の戦死を知らせる。更に、多くの援兵を要求し、かたきをとりたいと願う。(欽明十六年)
 八月、百濟の王子餘昌、諸臣の前で出家したいと漏らす。諸臣の諫めによって取りやめる。

五五六年
 正月、百濟王子恵帰国。筑紫、多くの兵仗良馬を授ける。阿倍臣・佐伯連・播磨直に、筑紫國舟師を率いさせ国まで護送させる。別に、筑紫火君チクシノヒノキミ(倭王の王子)に勇士一千人を授け、彌弖津ミテツ(熊津東方か)に派遣し守らせた。(欽明十七年)

 ◎ 五五七年「前梁」滅亡(五十五年目)。 「陳」建国。
        前梁の重臣陳覇先、禅譲されて「陳」建国。
 ◎ 五五七年「西魏」滅亡(二十二年目)。「北周」建国。
        西魏の重臣宇文覚、禅譲を受け「周」建国。

五五七年
 三月、百濟王子餘昌、威徳王として即位。(いつまで在位か?)(欽明十八年)

五六〇年
 九月、新羅朝貢。返礼の品、常より過ぎた。使者喜んで帰り、「朝貢の使者は、官位の高い者を選んだ方がよい」と報告する。(欽明二十一年)

五六一年
 新羅朝貢。返礼の品、常より少ない。使者怒り、恨んで還る。(欽明二十二年)
 是歳、また新羅の奴氐大舎ヌテタサが来て朝貢。席次を百済の下に定められ、怒って還る。帰途、穴門館を修築しているを見て、質問するに、西方の無禮なる国を問責する使者の宿泊施設だと聞かされ、急ぎ帰国し報告する。そこで新羅は阿羅波斯山に築城して日本に備えた。

五 任那の滅亡  (要図一六 参照)
五六二年
 正月、新羅は、準備万端整えて大軍を発し、任那諸氏族の内、従わないものを攻撃、遂に、任那を併呑する。
 攻撃された任那諸氏族とは、黄山江流域の加羅カラ・多羅タラ・安羅アラ・斯二岐シニ・率麻ソチマ・古嵯コサ・子他シタ・散半下サンハンゲ・乞飡コチサン・稔禮ニムレ等を言う。(欽明二十三年)
 
六月、欽明天皇、任那が滅ぼされたのを怒る。
 七月、新羅、朝貢。使者は新羅が任那を滅ぼしたことを恥じて、帰国せず。
 是月、大和の天皇は大將軍紀男麻呂宿禰キノオマロノスクネに筑紫駐屯中の兵を与えて(少なくとも五千名程度か)派遣する。
 宿禰は、哆唎に向かい進む。緒戦は快勝し、いったん百済の領内に戻り、厳重な警戒の元宿営する。
 副將の河邊臣瓊缶ニヘは居曾コムソ山から進む。緒戦は勝ち、勢いに乗り、深追いしたため、新羅の捕虜になる。
 大将軍紀男麻呂宿禰は、やむを得ず、兵をまとめて帰国した。
 十一月、新羅朝貢、使者、帰国を拒む。

六 高句麗の使節至る
五六五年
 五月、高句麗人の頭霧唎耶陛ツムリヤヘ等、筑紫に到り、帰化。(欽明二十六年)

七〇年
 四月、高句麗の使者、風波に苦しみ、越の国に漂着

五七〇年
 七月、高句麗の使者、近江に到着。山背の高械館に迎え入れる。

五七一年
 三月、坂田耳子郎君ミミコノイラツキミを新羅に派遣、任那を滅ぼしたことを問責させる。(欽明三十二年)
 是月、高句麗の獻物及び表、未だ呈奏出来ず、數旬待つ。良き日を占って待つ。
 四月、欽明天皇病重し、皇太子に新羅を討ち、任那を回復せよと命じて崩御。

五七二年
 五月、敏達天皇、五七〇年に至った高句麗使人を引見。(敏達元年)
 六月、高句麗大使と副使、仲違い。副使等の企みにより、大使殺害される。
 七月、高句麗の使者、帰る。

五七三年
 五月、高句麗の使者再び来るも、越前の海岸で難破。朝庭は使者がしきりに道に迷うのを疑い、逢わずに帰す。吉備海部直難波アマノアタヒナニハに命じて、高句麗の使者を送り返す。(敏達二年)
 七月、送使吉備海部直難波、海の波浪を恐れて、高句麗の使者二人を海に投げ込む。
 八月、送使の難波、嘘の復命をする。

五七四年
 五月、高句麗の使者、更に来て越前海岸に到着。(敏達三年)
 七月、高句麗の使者入京して、去年の送使難波の不正を暴く。難波、罪を受ける。

七 新羅の朝貢再開
五七四年
 十一月、新羅遣使進調。(敏達三年)

五七五年
 二月、百濟遣使進調。いつもより多し。(敏達四年)
 四月、吉士金子(カネ)を新羅に、吉士木蓮子イタビを任那に、吉士譯語彦オサヒコを百濟に使者として派遣。
 六月、新羅遣使進調。いつもより多し。併せて、多々羅・須奈羅・和陀・發鬼、四邑の調を納める。

五七七年
 五月、筑紫、大別王オホワケノオホキミと小黒吉士コグロノキシを使者として百濟國に派遣。(敏達六年)
 十一月、百濟の威徳王は、大別王等が還るについて、經論若干巻、併せて律師・禪師・比丘尼・呪禁師・造佛工・造寺工、六人をつけて送る。

 ◎ 五七七年「北斉」滅亡(二十七年目)。北周、北斉を攻め滅ぼす。

五七九年
 十月、新羅は枳叱政奈末キシサを派遣して朝貢。併せて佛像を送る。(敏達八年)

五八〇年
 六月、新羅は安刀奈末アト・失消奈末シショウを派遣して朝貢するも、受け取らずして帰す。 (敏達九年)

 ◎ 五八一年「北周」滅亡(二十四年目)。
       「隋」建国。「北周」から禅譲。楊堅、文帝となる。

五八二年
 十月、新羅は安刀奈末・失消奈末を派遣して朝貢するも、受け取らずして帰す。(敏達十一年)

八 任那の復興を企図する
五八三年
 七月、敏達天皇、任那の復興を図る。今、百濟に居る火葦北國造阿利斯登の子達率日羅ダチソツニチラが賢く、勇気があるので、連絡を取らせるため、紀國造押勝と吉備海部直羽嶋を百済に派遣する。(敏達十二年)
 十月、紀國造押勝等、百濟からかえって報告するに、百濟國王は、日羅を惜しんで倭に来させないと言う。
 是歳、また、吉備海部直羽嶋を派遣して、首尾よく日羅を招聘するのに成功するが、日羅は同行した百済人に殺害されてしまう。

五八四年
 二月、難波吉士木蓮子を新羅に派遣。(敏達十三年)
 九月、百濟より筑紫の官人鹿深臣カフカノオミ、彌勒石像一躯を持参する。また、佐伯連、佛像一躯を持参。(敏達十三年)

 ◎ 五八七年「後梁」滅亡(三十三年目)。隋、傀儡政権の後梁を直轄領にする。

五八七年
 六月、百濟の調使、大和へ來朝。大和の大臣(蘇我馬子)曰く「この尼等(善信尼とその弟子の禪蔵尼、恵善尼)を汝の國に連れて行き、戒法を学ばしてくれ」。
 使者答えて曰く「臣等国に帰って、報告してからにして頂きたい」。(用明二年)

五八八年
 百濟國は使者と僧侶数人を派遣、佛舎利を献納。帰途、善信尼等を使者に預け、學問させる。飛鳥に初めて法興寺を建てる。(崇峻元年)




第七章 中国統一政権との外交

一 「筑紫王朝」、「隋」との外交開始
 ◎ 五八九年「陳」滅亡(三十二年目)。「隋」、陳を滅ぼす。
   中国の全土統一成る。

五九〇年
 三月、學問尼の善信等、百濟から帰り、櫻井寺に居す。(崇峻三年)

五九一年
 八月、崇竣天皇、群臣を集め、任那再建を議論する。
 十一月、大和は、紀男麻呂宿彌キノオマロ・巨勢猿臣コセノサル・大伴囓連オオトモノクヒ・葛城烏奈良臣カツラギノオナラを大將軍とし、氏々の臣連を副将として、二萬餘の軍を率いて筑紫に進出。筑紫の吉士金を新羅に、吉士木蓮子を任那に派遣し、任那の事情を偵察させた。(崇峻四年)

五九二年
 十一月、崇峻天皇、蘇我馬子の刺客に殺される。推古天皇即位。(崇峻五年)

五九五年
 五月、高句麗の僧慧慈エジが歸化。皇太子(聖徳太子)の師とする。(推古三年)
 七月、紀男麻呂宿彌等、大和の將軍等、四年間何もせずに筑紫から還る。
 是歳、百濟の僧慧聰エソウが來る。此の兩僧、佛教を広め、三寶の棟梁となる。

五九六年
 十一月、法興寺完成。蘇我馬子の子の善徳臣ゼントコを、寺の司とする。高句麗僧慧慈・百済僧慧聰、法興寺に住職となる。(推古四年)

五九七年
 四月、百濟王、王子の阿佐を派遣し朝貢。(推古五年)
 十一月、吉士磐金イハカネを新羅に派遣。

五九八年
 四月、難波吉士磐金、新羅から帰る。(推古六年)
 八月、新羅、孔雀一羽を貢ぐ。

五九九年
 九月、百濟、賂駝一匹・驢(ろば)一匹・羊二頭・白薙一隻を貢ぐ。(推古七年)

二 「筑紫王朝」による新羅討伐、成功
 大和と筑紫を比較すれば、朝鮮半島の処置については筑紫に一日の長があり、地の利を得ていることもあり、手際がよい。
 大和は、かなりの大兵力を準備するが、その処置はちぐはぐであり、結果的に「任那の滅亡」を招いてしまう。

六〇〇年
 二月、新羅は任那諸国に圧政を敷く。この為任那諸氏族反乱する。
 倭王は、任那を救わんと欲す。(推古八年)
 是歳、倭王は、境部臣サカヒベを大將軍、穂積臣を副將軍(並びに姓名不詳)とし、萬餘の兵を率い、任那のために新羅を討つ。海を渡り、新羅の五城を抜く。
 新羅王、降伏。多多羅・素奈羅・弗知鬼・委陀・南迦羅・阿羅羅六城を差し出す。
 倭王は、更に難波吉師神を新羅へ、難波吉士木蓮子を任那に派遣し、状況を調査する。
 新羅・任那の二國は遣使朝貢を約束する。
 そこで将軍等を新羅から帰還させたところ、新羅は又任那を侵した。

三 「大和王朝」による新羅討伐、失敗
六〇一年
 三月、推古天皇は、筑紫に滞在中の大伴連囓クヒを高句麗に、坂本臣糠手アラテを百濟に派遣し、速やかに任那を救うよう要請。(推古九年)
 九月、新羅の諜者迦摩多カマタ、對馬に至る。捕まえて上野に流す。
 十一月、新羅攻撃を計画する。

六〇二年
 二月、推古天皇は、來目皇子クメノミコを將軍とし、兵二萬五千人を与える。(推古十年)
 四月、將軍來目皇子、筑紫に至り、嶋郡(糸島半島)に集結、船舶を集めて軍粮を運ぶ。
 六月、大伴連囓・坂本臣糠手、高句麗・百濟から還るも、來目皇子、病臥中にて征討出来ず。
 十月、百濟僧觀勒來りて暦本及天文地理書、并せて遁甲・方術の書を貢ぐ。書生三人を選び、觀勒に学ばせる。
 陽胡史の祖の玉陳タマフルは暦法を、大友村主高聰は天文遁甲を、山背臣日立は方術を学んだ。
 潤十月、高句麗僧の僧隆・雲聰、来日。

六〇三年
 二月、來目皇子、筑紫にて死す。(推古十一年)
 四月、更に來目皇子の兄當摩皇子タギマノミコを、將軍とする。
 七月、當摩皇子、難波より出発。播磨に到着。時に從う妻の舎人姫王、赤石で死す。このため當摩皇子は帰還したので、遂に征討出来ず。

六〇四年
 十七条の憲法作成。

六〇五年
 四月、推古天皇、皇太子、大臣及諸王諸臣等に命じ、始めて銅と繍の丈六佛像を、各一軀を造る。鞍作鳥を、造佛工とする。
 是時、高句麗國大興王、日本國天皇が佛像を造ると聞き、黄金三百兩を貢ぐ。(推古十三年)

四 「筑紫王朝」、「隋」に遣使
六〇七年
 倭王、隋に遣使する。
 倭王(多利思北孤、タリシホコ)としては、中国北方政権の興亡を見るに、新たに政権を獲得した「隋」も、恐らく短命であろうと見当を付けた。
 事実三十七年目に「唐」に取って代わられたのであるが、一応中国全土を統一したという実績を重んじ、朝貢することにした。
 しかし、倭王は誇り高く、自らの国名を「大倭タイイ」と称し、中国に対して卑屈な態度は取らなかった。只、「大倭」は、いかにもおこがましい国名なので、「俀国タイコク」と換え字をもって国書に記したようである。
『大業三年(六〇七)、その王多利思北孤、使を遣わして朝貢す。
 使者いわく、「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人、来って仏法を学ぶ」と。
 その國書にいわく、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや、云云」と。
 帝、これを覧て悦ばず、鴻臚卿にいっていわく、「蛮夷の書、無礼なる者あり、復た以て聞するなかれ」と。』(隋書俀国伝)
『大業の初、倭国(筑紫)の官人会丞カイジョウ、此に来りて学問す。内外博知。』(法苑珠林)
『開皇二十年、俀王あり、姓は阿毎アマ、字は多利思北孤、と号す。使を遣わして闕に詣る。 上、所司をしてその風俗を訪わしむ。使者言う、「俀王は天を以て兄となし、日を以て弟となす。天未だ明けざる時、出でて政を聴き跏趺して坐し、日出ずれば便ち理務を停め、云う、「我が弟に委ねんと」と。
 高祖いわく、「これ大いに義理なし」と。ここにおいて訓えてこれを改めしむ。
 王の妻は雞弥キミと号す。後宮に女六、七百人あり。
 太子を名づけて利歌弥多弗利リカミタフリとなす。城郭なし。
 内官に十二等あり、一を大徳といい、次は小徳、次は大仁、次は小仁、次は大義、次は小義、次は大礼、次は小礼、次は大智、次は小智、次は大信、次は小信。
 ……阿蘇山あり。その石、故なくして(常に新しい岩石を噴出していて、古いものはないの意)、火起り天に接する者、俗以て異となし、因って祷祭を行う。
 如意宝珠あり。その色青く、大いさ鷄卵の如く、夜は則ち光ありと云う。魚の眼精なり。
 新羅・百済、皆俀を以て大國にして珍物多しとなし、並びにこれを敬仰し、恒に通使・往来す。』(隋書俀国伝)

六〇八年
『大業四年三月 百済・倭(倭国)・赤土・迦羅舎国、並びに使いを使わして、方物を貢す。』(隋書煬帝記)
『明年(大業四年)、上、文林郎斐清ハイセイを遣わして俀國に使せしむ。百済を度り、行きて竹島に至り、南に耽羅国(済州島)を望み、都斯麻国を経る。迥かに大海の中に在り。又東して一支国に至り、又竹斯国に至り、又東して秦王国に至る。その人華夏(中国)に同じ、以て夷洲となすも、疑うらくは、明らかにする能わざるなり。また十餘國を経て海岸に達す。竹斯國より以東は、皆な俀に附庸す。
 俀王、小徳阿輩台アハタイを遣わし、数百人を従え、儀仗を設け、鼓角を鳴らして来り迎えしむ。 後十日、また大礼哥多毗カタビを遣わし、二百餘騎を従え郊労せしむ。既に彼の都に至る。その王、清と相見え、大いに悦んでいわく、「我れ聞く、海西に大隋礼義の國ありと。故に遣わして朝貢せしむ。我れは夷人、海隅に僻在して、礼義を聞かず。これを以て境内に稽留し、即ち相見えず。今故らに道を清め館を飾り、以て大使を待つ。冀くは大國惟新の化を聞かんことを」と。清、答えていわく、「皇帝、徳は二儀に並び、沢は四海に流る。王、化を慕うの故を以て、行人を遣わして来らしめ、ここに宣諭す」と。既にして清を引いて館に就かしむ。その後、清、人を遣わしてその王に云っていわく、「朝命既に達せり、請う即ち塗を戒めよ(大和へ向かう道中の警護の依頼)」と。
 ここにおいて、宴享を設け以て清を遣わし、また使者をして清に随い来って方物を貢せしむ。この後遂に絶つ。』(隋書俀国傳)

六一〇年
  『大業六年三月、倭国(筑紫)、使を遣わして、方物を貢す。』(斐世清に随行)(随書煬帝記)

六一一年
 八月、新羅沙喙部奈末北叱智ホクシチと任那習部大舎親智周智シンチシュチを派遣して朝貢。(推古十九年)

六一二年
 百濟國から路子工ミチコノタクミ・味摩之ミマシ歸化。(推古二十年)

六一六年
 七月、新羅は奈末竹世士チクセイシを派遣し、佛像を貢す。(推古二十四年)

六一七年
 八月、高句麗は使者を派遣し朝貢。
 曰く、隋の煬帝、(六一四年に)三〇萬の兵で高句麗を攻めたが敗退したという。貢物として、俘虜の貞公テイコウ・普通フトウの二人の他、鼓吹・弩・抛石之類十物・土物・駱駝一匹。 (推古二十六年)

 ◎ 六一八年「隋」滅亡(三十七年目)。 「唐」建国。
       「隋」から禅譲。李淵即位(高祖)。(二八九年続く)

五 「大和王朝」、「唐」との外交開始
六一九年
 七月、大和は、初めて小野臣妹子を唐に派遣、鞍作福利クラツクリノフクリを通事とする。(第一次遣唐使) (推古十五年)

六二〇年
 四月、小野臣妹子、大唐から帰国。唐國、妹子臣を蘇因高ソインコウと名ずく。
 大唐使人斐世清・下客十二人、妹子臣と共に筑紫に至る。難波吉師雄成を派遣し、大唐客斐世清等を招く。
  六月、客等難波津に着く。餝船卅艘で出迎え、難波高麗館の上の新館に案内する。
 小野妹子、唐帝から受けた国書を百済に於いて失ったことを告白。客人の手前処罰せず。
 八月、唐客入京。餝騎七十五疋で唐客を海石榴市のちまたに出迎える。
 唐帝の書に曰く「皇帝、倭皇に問う。……、天皇、海表に介居するを知る。……」。
 九月、客等を難波大郡で供応する。
 唐客の斐世清帰国の時、又小野妹子臣を大使とし、吉士雄成を小使とし、福利を通事として、唐客に副えて唐へ派遣する。(第二次遣唐使)
 天皇の唐帝への書簡に曰く「東天皇、謹んで西皇帝に申す。使人鴻臚寺掌客斐世清等が至り、久しき憶い全く解けた。……」。
 このとき唐國に派遣する学生は、倭漢直福因・奈羅訳語恵明・高向漢人玄理・新漢人大圀・學問僧新漢人日文・南淵漢人請安・志賀漢人恵隠・新漢人廣斎等八人。(推古十六年)

六二一年
 二月、聖徳太子薨。(推古二十九年)
 四月、筑紫の大宰(倭王)が通報、「百濟僧道欣・恵彌等八十五人肥後國葦北津に至る。 百濟王の命により隋に派遣されたが、其國、亂れて入国できず、帰途、嵐に遭い漂流したが、ここに着いた」という。(推古十七年)
 五月、百濟人等を本國に送るため、対馬迄行ったが、百済僧等十一人、日本に止まることを希望したので、元興寺に居住させた。
 九月、小野臣妹子、唐から帰還。但し通事の福利は還らず。

六二二年
 三月、高句麗王、僧曇徴・法定を派遣。曇徴、五經を知り、且つ彩色・紙墨を作り、水力利用の挽き臼を造る。この時から、これは始まった。(推古十八年)
 七月、新羅使人沙喙部奈末竹世士と任那の使者喙部大舎首智買、筑紫に到着。
 九月、大和は使者を派遣、新羅と任那の使人を招致。
 十月、新羅と任那の使人、大和の都に到着。供応を受けて帰国。(推古十八年)
 是歳、新羅は任那に侵攻する。天皇は新羅を討つための諮問をする。先ず、使者を派遣して、実情を知るのがよいとされ、新羅と任那に使者を派遣。無事に講和が成って、使者が帰ろうとするとき、大徳境部臣雄摩侶(オマロ)等が數萬の兵を率いて新羅討伐の軍を進める。新羅の國主恐れて降伏する。(大和朝廷内で意志の疎通不良)

六二五年
 正月、高句麗王、僧恵灌を貢す。僧正に任命する。(推古三十三年)

六二七年
 六月、犬上君御田鍬・矢田部造を唐に派遣。(第三次遣唐使)(推古二十二年)

六二八年
 九月、犬上君御田鍬・矢田部造、唐から帰還。百濟の使者随行して来朝。
 十一月、百濟の使者を供応。高句麗僧の慧慈歸國。(推古二十三年)

六二九年
 新羅、奈末伊彌買イミバイを派遣、大和へ朝貢。新羅が上表するのはこの時から始まった。
 七月、新羅は大使奈末智洗爾、任那は達率奈末智を派遣して朝貢。
 是時、大唐の學問僧の恵齋・恵光・医師の恵日・福因等も来朝。
 恵日等が言うには、「唐國に留学中の學生達(六二〇年に派遣)、学業成就したので呼び戻したら如何、又、その大唐國は、法式が備わった珍國なので。常に通うのが望ましい」という。(推古三十一年)

六三〇年
 三月、高句麗の大使宴子抜小使若徳、百濟大使恩卒素子小使徳卒武徳、朝貢。
 八月、大仁犬上君御田鍬・薬師恵日を大唐に派遣。(第四次遣唐使)(舒明二年)

六三一年
『貞観五年、倭(筑紫)の官人会丞、本国の道俗七人と共に倭国に還る。』(法苑珠林)
『貞観五年、俀国、使を遣わして方物を献ず。太宗その道の遠きを矜れみ、所司に勅して歳ごとに貢せしむるなし。また新州の刺史高表仁を遣わし、節を持して往いてこれを撫せしむ。表仁、綏遠の才なく、王子と礼を争い、朝命を宣べずして還る。』(旧唐書倭国伝)

六三二年
 八月、大唐は(再び)使者高表仁とし、大和の御田鍬を送り、共に對馬に至る。學問僧靈雲・僧旻及勝鳥養、新羅送使等これに従う。(舒明四年)
 十月、唐國使人の高表仁等、難波津に至る。大伴連馬養を派遣、江口に迎える。
 船三十二艘及び鼓吹旗幟、皆飾りを整える。
 高表仁等に告げて曰く、「天子所命之使、天皇の朝に至ると聞き、出迎えに来ました」。
 高表仁答えて曰く、「風寒き日、船艘を飾っての出迎え、喜びに耐えません」云々。(舒明四年)

六三三年
 正月、大唐の使者高表仁等歸國。送使吉士雄摩呂・黒麻呂等は對馬に至りて還る。(舒明五年)

六三五年
 六月、百濟、達率柔等が朝貢。(舒明七年)

六三八年
 百濟・新羅・任那、朝貢。(舒明十年)

六三九年
 九月、大唐への學問僧恵隠・(恵雲)、新羅の送使に従い帰還。(舒明十一年)
 十一月、新羅の客を朝廷にてもてなし、冠位一級を与える(舒明十一年)。

六四〇年
 十月、大唐への學問僧請安・學生高向漢人玄理、新羅を経て帰還。百濟・新羅の朝   貢の使者も共に従いて来る。それぞれに爵一級を与える。(舒明十二年)

六四二年
 正月、百濟への使者阿曇連比羅夫、筑紫國から驛馬により来たりて言う。「百濟國、天皇崩御と聞き、弔問使を派遣したので、私はこれに従い筑紫に来たが、私は葬儀に参列したいので独り先に来ました。しかも、百済国は大いに乱れております」。(皇極元年)
 二月、阿曇山背連比羅夫・草壁吉士磐金・倭漢書直縣を百濟の弔問使のところへ派遣、百済の情報を聞かせる。弔使が言うには「百濟の人質塞上を帰してくれと言っても天皇は許可すまい。」
 又、その供の者が言うには、「去年十一月、大佐平智積死亡。又百濟の使人が、崑崙使者を海に投げ入れた。今年正月、國主の母死亡。又弟王子の子翹岐及び其の妹四人、内佐平岐味、高名の人三十餘人、嶋に流された。」。(皇極元年)
 二月、高句麗の使人、難波津に至る。諸大夫を難波津に派遣して、高句麗國の貢ぐ金銀・獻物を検査させた。
 使人が言うには「去年六月、弟王子死亡。秋九月、大臣伊梨柯須彌が大王を殺害し、伊梨渠世斯等百八十餘人も殺した。弟王子の子を王とした。使者の同姓の都須流金流を大臣とした。」
 高句麗・百濟の客を難波津で饗応する。
 天皇、大臣に命じ、津守連大海を高句麗に、國勝吉士水鶏を百濟に、草壁吉士眞跡を新羅に、坂本吉士長兄を任那へ派遣させることにした。
 再び高句麗・百済の使者を饗応して帰国させた。(皇極元年)

六四三年
 四月、筑紫大宰(倭王)が通報。「百濟國主の子翹岐、調使と共に來る」。
 六月、筑紫大宰(倭王)が通報。「高句麗、遣使して來朝」。
 百濟の進調船、難波津に至る。
 七月、數大夫を難波津に派遣し、百濟國の調と獻物を検査。いつもより少ないのを糺す。使者答えて言うに、「速やかに前例に戻す。」(皇極二年)

六四五年
 六月、大化改新
 七月、高句麗・百濟・新羅、朝貢。百濟の調使、任那の使を兼ね、任那の調を納める。百濟大使の佐干縁福、病いにより津館に止まり入京せず。(大化元年・孝徳元年)

六四六年
 二月、高句麗・百濟・任那・新羅、遣使朝貢。(大化二年)
 九月、高向黒麻呂(玄理)を新羅に派遣、人質を要求。(大化二年)

六四七年
 正月、高句麗・新羅、朝貢。(大化三年)
 新羅は上臣大阿飡金春秋キムシュンシュウ(新羅の王子)等を派遣、高向黒麻呂・中臣連押熊を送り、孔雀一隻・鸚鵡一隻を贈る。春秋を抑留して人質とする。春秋は美男子にして快活。(大化三年)

六四八年
 二月、三韓に學問僧を派遣。(大化四年)
 是歳、新羅は遣使朝貢。

六四八年
  『(筑紫)貞観二十二年に至り、また新羅に附し表を奉じて、以て起居を通ず。』(旧唐書)

六四九年
 五月、三輸君色夫・掃部連角麻呂等を新羅に派遣。(大化五年)
 是歳、新羅王、沙睩部沙飡金多遂キムタスイを派遣し、金春秋に換えて人質とする。從者三十七人。

六五〇年
 四月、新羅は遣使朝貢。

六五一年
 六月、百濟・新羅、遣使朝貢。(白雉二年)
 是歳、新羅の貢調使知萬沙飡等、唐國の服を着用して筑紫に至る。朝庭是を嫌い、追い返す。巨勢大臣が奏上するに「まさに今新羅を討たねば、後に必ず悔を受けます。その方法として、難波から筑紫に至るまで船を集め、是を新羅の使者に見せて威嚇すれば足りるでしょう」と言う。

六五二年
 四月、新羅.百濟、遣使して朝貢。(白雉三年)

六五三年
 五月、大唐に使者を派遣。大使吉士長丹ナガニ、副使吉士駒、學問僧道嚴ドウゴン・道通・道光・恵施・覺勝・辮正・恵照・僧忍・知聰・道昭・定恵・安達・道觀、學生巨勢臣藥コセノオミクスリ、氷連老人ヒノムラジオキナ、或本に、学問僧知辮・義徳、学生坂合部連磐積を以って増す。并一百二十一人、倶に一船に乗る。室原首御田をもって送使とする。
 又第二船として大使高田首根麻呂ネマロ、副使掃守連小麻呂、學問僧道福・義向、并一百二十人、倶乗一船。土師連八手をもって送使とする。(第五次遣唐使)(白雉四年)
 六月、百濟.新羅、朝貢。
 七月、大唐への第二船、薩麻の南方にて難破。五人のみ助かる。

六五三年
 新羅、武烈王(金春秋)即位。(六六一年薨)
 百済、義慈王十三年八月、倭国と通好す。迎古王の王子豊璋ホウショウを筑紫に差し出す。 (百済本紀)
 史書には記されていないが、百済はこの頃から亡国への道を走り出したようである。

六五四年
『永徽五年十二月癸丑、倭国(筑紫)、琥珀瑪瑙を献ず。琥珀、大なること斛の如し。瑪瑙、大なること五斛器の如し』(高宗上)
『高宗永徽五年、倭国の使、琥珀・瑪瑙を献ず。高宗、之を刷撫して云うに、王国は新羅・高麗・百済と接近す。若し、危急あらぱ宜しく之を救う使を遣わすべし。』(唐録)

六五四年
 二月、押使高向史玄理、大使河邊臣麻呂、副使藥師恵日、判官書直麻呂・宮首阿彌陀、岡君宜・置始連大伯・中臣間人連老、田邊史鳥等、二船に分乗し、數月をかけ。新羅道を使い、莱州を経て、遂に唐の都に至る。唐の天子の問いに答えて、日本國の地里及び國の初めの神の名を示す。大使の高向玄理、唐において死亡。(第六次遣唐使)(白雉五年)
 伊吉博得の言うには、(六五三の)學問僧(恵妙)・覺勝は唐で死亡。知聰・(智國)・(義通)は海で死亡。(智宗)、庚寅年(持統四年六九〇)新羅の船で歸る。定恵、乙丑年(天智四年六六五)劉徳高等の船で歸る。(妙位)・(法勝)、學生氷連老人・(高黄金)、并十二人、別倭種(韓智興)・(趙元寶)、今年、使人とともに歸る。
( )内は倭国人(筑紫)。
 七月、吉士長丹等、百濟・新羅の送使とともに、筑紫に至る。(六五三の遣唐使)
 十二月、高句麗・百濟・新羅、弔問使を派遣。(十月に孝徳天皇崩御)

六五五年
 八月、河邊臣麻呂等、大唐から還る。(六五四年の遣唐使)(斉明元年)
 是歳、高句麗・百濟・新羅、遣使朝貢。(百濟大使西部達率余宜受・ヨギズ以下一百餘人) 新羅、別に及飡彌武キウサンミムを質とする。彌武、病気で死す。

六五六年
 八月、高句麗、達沙ダチサ等を派遣し進調。大使達沙以下八十一人。(斉明二年)
 九月、高句麗に遣使。大使膳臣葉積ハツミ以下。
 是歳、高句麗・百濟・新羅、遣使進調。
 是歳、西海使(筑紫)佐伯連栲縄タクナハ、難波吉士國勝等、百濟より還る。(出発時期不明)

六五七年
 沙門智達・間人連御厩・依網連稚子等を新羅の使者と同行させ大唐に送ろうとするも、新羅が拒否。
 又、西海使(筑紫)阿曇連頬垂ツラタリ・津臣傴僂ツクマ、百済から還る。(斉明三年)

六五八年
 七月、沙門智通・智達、新羅船に乗り、大唐國に至り、玄装法師から無性衆生義を受ける。(斉明四年)

六五九年
 七月、坂合部連石布イハシキ・津守連吉祥キサ、唐國に派遣。道奥の蝦夷男女二人を、唐天子に逢わせる。(第七次遣唐使)(斉明五年)
 伊吉連博徳の書に曰く、坂合部石布連・津守吉祥連等二船にて、唐への使者とする。己未年(六五九)七月三日、難波三津之浦を発つ。 八月十一日、筑紫大津之浦を発つ。 九月十三日、百済の南端の嶋に到着。嶋の名は不明。十四日払暁、二船、大海に出る。
 十五日日没時、石布連の第一船逆風に逢い、南海の嶋に漂い着き嶋人のため捕虜となる。東漢長直阿利麻アリマ・坂合部連稻積イナツミ等五人、嶋人の船を盗み、逃げて括州に至る。州縣の官人、洛陽之京へ送る。
 十六日夜半時、吉祥連の第二船、越州會稽縣須岸山に到着。 東北の風激しく、廿二日、餘姚縣に至る。
 大船及び諸調度之物をそこに止め置き。 潤十月一日、越州に着き。 十五日、驛馬により入京。 廿九目、東京に至る。
 天子、東京に在り。 三十日、天子に拝謁。
 天子質問「日本國の天皇、平安であるか」。「天地徳を合わせ、平安なり」。「執事の卿等はどうか」。「天皇、重く用いるので、皆励んでおります」。「國内は平安か」。「政治、天地に叶い、萬民、無事であります」。「これらの蝦夷の國は何処にあるか」。「國は東北なり」。「蝦夷は幾種か」。「三種あり、遠きは都加留ツカル、次は麁蝦夷アラエミシ、近きは熟蝦夷ニキエミシと申し、この者たちは熟蝦夷にして、毎歳、本國の朝廷に朝貢する」。「その國に五穀はあるか」。「無し。肉を食いて生活します」。「國に屋舎有るか」。「無し。深山の中、樹木の中にくらす」。
 天子、重ねて曰く、「朕、蝦夷の身面の不思議なるを見て、極めて喜びかつ怪しむ。使人、遠来、辛苦。退ってよろしい。後日また呼び出そう」。
 十一月一日、朝廷の冬至の會に再び謁見。諸蕃の中で筑紫の客が最も勝れていた。その後、出火の亂により、朝見不能。
 十二月三日、(韓智興カンチコウ)の供人の(西漢大麻呂)が、事実を曲げて我等を誹ったため、使者達は、唐朝において罪を被せられ、すでに流罪が決まった。
 先ず、(智興)を三千里の外に流す。
 使者の中に伊吉連博徳がおり、陳弁努めたため、罪を許された。
 事が終わった後天子から告げられる。「國家は、來年、海東征伐をする。汝等倭の客は、東へ歸ってはならぬ」。
 よって、西京において捕らえられ、別々に閉じこめられ、東西することを許されず、困苦して年を經る。
 難波吉士男人の書に曰く、大唐への大使、嶋に座礁。副使は天子に謁見し、蝦夷を紹介する。蝦夷、白鹿皮・弓三・箭八十を天子に献上した。

六 新羅、百済の王城を奪取 (要図一七 参照)
六六〇年
 正月、高句麗の使人、乙相賀取文オツソウガスモン等一百餘、筑紫に到る。(斉明六年)
 五月、高句麗の使人、難波館に到る。
 七月、高句麗の使人、歸国。
 七月、新羅・唐連合軍は、百済王城(扶余)に殺到、攻め落とす。
九月、百濟は達率沙彌覺從サミカクシュ等を派遣して報告するに、「今年七月、新羅は唐の勢力を借りて百済を傾けた。君臣、総て捕虜となり、残れるもの無し。」(斉明六年)
 そこで、西部恩率鬼室福信キシツフクシンが發憤して、任射岐山ニザキ(熊津西側の山か)に立て籠もる。
 中部達率餘自進ヨジシンは、久麻怒利城クマノリノサシ(熊津)に入る。
 各營で、敗兵をかき集めたが、兵器はほとんど無いので、棍棒を以て戦い、新羅の軍を破った。百濟はその兵器を奪い、百濟兵は精鋭となった。
 唐は敢えて介入せず。福信等は遂に同國人を集めて、共に王城を保つ。」(斉明六年)
 或本云、今年七月十日、大唐の蘇定方、船師をもって尾資の津(ビシノツ)に集結した。
 新羅王春秋智は兵馬を率い、怒受利の山ノズリ(熊津東方)に集結。唐の蘇定方とともに百濟を攻撃し、三日間の戦闘で王城は陥落。
 百濟王義慈以下、妻子等、其臣等、凡そ五十餘、七月十三日に、蘇將軍に捕虜にされ、唐國に送られた。
 よって、百済の残将は、兵を集め、西北に備え、城柵を修理し、山川を断ち塞ぐ。
 高句麗沙門道顯日本世記曰、春秋智が大將軍蘇定方の力を借りて、百濟を挾撃しこれを滅ぼしたという。
 或いは、百濟は自ら亡びたという。国主の大夫人が妖女の無道の限りを尽くして、欲しいままに国政を壟断し、賢良を誅殺したが故に、この禍を招いたという。
 其の注に云う、新羅の春秋智は、百済討伐の援兵を高句麗に求めたが、容れられなかったので、唐の天子に援兵を要請したという。
 伊吉連博徳書云、庚申年(六六〇)八月、百濟がすでに平定された後に、唐に派遣されていた使者たちが、九月十二日に放免された。十九日に西京(長安)を発ち十月十六日に束京(洛陽)に帰還、始めて阿利麻(アリマ等、難破した第一船の五人と逢うことが出来た。
 十一月一日、將軍蘇定方等に捉えられた百濟王以下、太子隆等、諸王子十三人、大佐平沙宅千幅サタクセンフク・國辮成コクベンショウ以下三十七人、あわせて五十許人、天子の前に連れ出され、即日、許されて放免された。
 十九日に勞をねぎらわれ、二十四日、東京から出発した。
 十月、百濟の佐平鬼室福信は、佐平貴智キチ等を筑紫に派遣し、唐の捕虜一百餘人を献ず。又、救援軍の派遣と王子余豊璋の帰還を要請。倭王、これを許す。(斉明六年)
 十二月、斉明天皇は難波宮に在り。天皇、福信の希望に添うため、筑紫に移り、救援軍の編成をすることを決意。(斉明六年)
 是歳、敗戦の予兆が多く見られたという。

六六一年
 四月、百濟の福信は遣使して上表、その王子の豊璋を迎えたいという。(斉明七年)
 五月、斉明天皇、朝倉橘廣庭宮に移られた。是の時、朝倉の社の木を切り払って、この宮を作ったため、神が怒って社殿を壊し、宮中に鬼火が見られた。これにより大舎人及諸近侍で病で死ぬもの多し。
 五月、耽羅は初めて王子阿波伎等を派遣し貢献。
 伊吉連博得書云、辛酉年正月二十五日、越州に到る。 四月一日、越州から東へ歸る。七日、聖岸山の南を過ぎ、八日明け方西南風に乗り船を大海に放つ。海中で方向を失い漂流し、九日八夜を経て、やっと耽羅嶋に到着した。すなわち、嶋人の王子阿波伎等九人を同行して、朝廷に来させることにした。 五月二十三日、朝倉の宮に到着。耽羅の入朝は、此時に始まった。
 七月二十四日、斉明天皇、朝倉宮にて崩御。(斉明七年)
 七月蘇將軍と突厥の王子契苾加力ケイヒツカリキ等は、水陸二路にて、高句麗城下に到る。(斉明七年)
 皇太子長津宮(福岡市三宅)に移りて、ようやくに海外の軍政を聞く。(斉明七年)
 七月丁巳、皇太子、素服稱制。
 八月、百済救援軍を、前將軍阿曇比邏夫連ヒラフ・河邊百枝臣モモエ等、後將軍阿倍引田比邏夫臣・物部連熊クマ・守君大石オホイハ等の二軍に分けて送ることを決定。  (稱制)
 八月、皇太子、天皇の亡骸を奉じて磐瀬宮に還る。(稱制)
 九月、皇太子、長津宮において、百濟王子豊璋に織冠を授け、多臣蒋敷コモシキの妹を妻として授ける。(稱制)
 また筑紫の挾井連檳榔アジマサ・秦造田來津タクツに、軍兵五千餘を授け、本国に還るを送らせる。
 豊璋の入國時、福信、迎え来て、拝み奉り、國の朝政、悉く委ねまつる。
 十月七日、天皇の亡骸、海路を経て出発、二十三日難波に帰還。(稱制)
 日本世記云、十一月、福信が捕虜にした唐人續守言等、筑紫(倭国)に到着。
 この年百濟佐平福信が献じた唐の無名の捕虜は一百六口、近江國墾田に置く。
 十二月、高句麗が言うには、この十二月、高句麗國、寒さ極しく沮(川の名)凍る。
 唐軍、雲車タカクルマ・衝輛ツキクルマを押し出し、鼓鉦騒然。
 高句麗の士卒、勇ましく戦い、唐の二壘を取る。更に二塞有り、夜襲で取ろうとするも、力尽き、取れず。(稱制)

六六二年
 正月、百濟の佐干鬼室福信に矢十萬隻(一隻は百本)・絲五百斤・綿一千斤・布一千端・韋一千張・稻種三千斛を賜う。(天智元年)
 三月、百濟王に布三百端を賜う。(天智元年)
 是月、唐人・新羅人、高句麗を討つ。高句麗、救いを求める。よって将軍を派遣し疏留城ソルノサシ(扶余西方の山)に入れる。これにより、唐人、南の境をかすめ得ず、新羅も其の西の壘を取り得ず。
 五月、大将軍安曇比邏夫連等、船師一百七十艘をもって、豊璋等を百済に送る。(天智元年)
 六月、百濟は達率萬智等を派遣し、獻物を届ける。(天智元年)
 十二月、百濟王の豊璋は、佐平福信等や、援軍の将(朴市田來津)に謀り、今居る州柔(ツヌ、疏留城ソルサシ)から出て避城ヘサシ(金堤)に移ろうとした。ここに朴市田來津が獨り反対を唱えた。しかし、諫めを聞かずして、避城に都を移した。
 是歳、百濟救援のため、兵甲を整備し、船舶を備え、兵糧を準備した。(天智元年)

七 白村江の戦闘 (要図一八 参照)
六六三年
 二月、百濟は達卒金受コンジュ等を派遣して進調。新羅が都城の周辺を荒らすので、元の都城の州柔(疏留城)に還ったという。(天智二年)
 二月、唐の捕虜續守言等を大和へ上げ送る。
 三月、筑紫は、前將軍、上毛野君稚子ワカコ・間人連大蓋オホフタ、中將軍、巨勢神前臣譯語ミオサ・三輪君根麻呂ネマロ、後將軍、阿倍引田臣比邏夫・大宅臣鎌柄カマツカと、二萬七千人を三軍に分け、約一千艘の船を集めて渡海させ、新羅を討たんとす。
 五月、犬上君、兵事を高句麗に告げて還る。百済王と石城で逢い、福信の罪を聞かされる。
六月、前將軍上毛野君稚子等、新羅の沙鼻岐奴江サビキヌエ二城を奪取。(天智二年)
 百濟王豊璋、福信が謀反の心有ると疑い、諸臣に図り、遂に斬罪にする。
 百済王余豊璋は、歴代の王の中でも二流の人物であったと見えて、包容力に欠け、又、家臣の能力・優劣を見極めるのが下手であったと見える。
 倭国に証人(人質)として滞在中にも、ミツバチを飼ったが、世話が下手で、失敗したなどという逸話も残っている。
 八月、新羅は、百濟王が自らの良將を切ったと聞き、都城を攻略せんとする。
 百済王は、自ら白村に行って筑紫からの援軍を迎えようとする。
 新羅は都城を囲む。
『是に於いて仁師・仁願及び新羅王金法便(春秋)、陸軍を師いて進む。……
倭人と白村江に遇う。四戦皆克ち、其の船四百艘を焚く。煙炎天を灼き、海水丹を為す。…王子扶余忠勝、忠志等、其の衆を師い倭人と与に並び降る。』 (三国史記・百済本紀六)
 大唐の将軍蘇定方は戰船(大型船)一百七十艘を率い、白村江に陣を組む。日本の船団の先鋒はこれに突っ込むが破れる。更に、中央突破を図るが、大唐の船団は左右から船を巡らして囲み、日本軍船団は徹底的に破られた。溺れる者多し。(天智二年)
 筑紫君薩野馬チクシノキミサチヤマ(倭王)も捕虜になる。
 陸戦では、援軍の将、朴市田來津エチノタクツは勇戦敢闘し、数十人を倒すが戦死。
 百濟王豊璋は、數人と乗船して、高句麗に逃亡。
 九月、百濟の都城柔城は陥落。(百済滅亡)(天智二年)
 日本からの援軍は百済の要人を拾い集め、日本に撤退。(天智二年)

六六四年
 三月、百濟王の善光王等、難波に居す。(天智三年)
 五月、百濟の鎭將劉仁願は、朝散大夫の郭務宗カクムソウ等を派遣し、表函と獻物をもたらす。
 『麟徳二年八月、是に於いて、仁軌、新羅・百済・耽羅・倭人等四国の使を領し、海に浮かびて西に還り、以て太山の下に赴く。』(冊府元亀)
 十月、郭務宗等に返事を持たせ帰すことを決め、饗応する。
 『麟徳二年十月、帝、東都を発し、東嶽に赴く。従駕の文武の兵士及び儀杖・方物相継ぐこと数百里。営を列し、幕を置き、あまねく郊原に連なる。
 突厥トッケツ・于闐ウテン・波斯ハス・天竺国・慶賓ケイヒン・烏莨ウラ・崑崙・倭国及び新羅・百済・高麗等、諸蕃の酋長、各、其の属を率いて扈従す』(冊府元亀)
 十二月、郭務宗等、帰国。
 是歳、對馬嶋・壹岐嶋・筑紫國等に、防人と狼煙を置く。又、筑紫に、大堤を築き貯水し水城と名付ける。(天智三年)

六六五年
 八月、長門國と筑紫國の大野及び橡に築城する。
 耽羅が遣使して來朝した。(天智四年)
 九月、唐國は朝散大夫折州司馬上柱國劉徳高リュウトクコウ・右戎衛郎將上柱國百濟禰軍クダラノネグン・朝散大夫柱國郭務宗カクムソウ等、凡そ二百五十四人を派遣する。
 七月二十八日、対馬に到る。
 九月二十日に筑紫に至る。二十二日に表函を進る。
 十一月、劉徳高等を饗応する。
 十二月、劉徳高等に物を賜う。是の月、劉徳高等帰国。
 是歳、守君大石オホイハ・坂合部連石積イハツミ・吉士岐彌キミ・吉士針間ハリマ等を大唐に派遣。(第八次遣唐使)

六六六年
 正月、高句麗・耽羅、貢獻。(天智五年)
 六月、高句麗・耽羅の使者帰国。
 十月、高句麗、進調。

六六七年
 七月、耽羅、貢獻。(天智六年)
 十月。高句麗で王子三兄弟が仲違いをし、長兄が唐国に出奔。
 十一月、百濟の鎭將劉仁願リュウジンガンは、熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰シバホウソウ等を派遣し、遣唐使の坂合部連石積等を筑紫の都督府に送って帰国。伊吉連博徳ハカトコ・笠臣諸石モロイハを送使とする。
 是月、大和の高安城・讃岐の屋嶋城・對馬の金田城を築く。

六六八年
 正月、送使の博徳等、服命。(天智七年)
 四月、百濟、進調。
 七月、高句麗、越の国を経て、遣使進調。風浪高く歸れず。
 七月、栗前王を筑紫率とす。
 九月、新羅は沙喙級飡金東巖キムトウゴン等を派遣して進調。
 十月、大唐の大將軍英公エイコウ、高句麗を討ち滅ぼす(高句麗滅亡)
 十一月、新羅王に、絹五十匹・綿五百斤・葦一百枚を賜い、金東巌等に付託する。東嚴等に物を賜い帰国させる。

六六九年
 正月、蘇我赤兄臣を筑紫率とす。(天智八年)
 三月、耽羅、貢獻。
 九月、新羅、朝貢。
 是歳、中河内直鯨クジラ等を使者として大唐に派遣。(第九次遣唐使)
 又、佐平餘自信ヨジシン・佐平鬼室集斯シフシ等、男女七百餘人を、近江國蒲生郡に所在させる。
 又、大唐は郭務宗等二千餘人を派遣した。

六七〇年
 倭王遣使、
 『高麗を平ぐるを賀す』(倭国最後の貢献記事)(冊府元亀)
 九月、筑紫、阿曇連頬垂ツラタリを新羅に派遣。(天智九年)
 『倭国(大和)更えて日本と号す。自ら言う「日出づる所に近し」と。以て名と為す。』(三国史記)
   (三国史記全般でも、この年(六七〇)を境に、倭と日本とを使わけている)

六七一年
 正月、高句麗、上部大相可婁等を派遣し進調。(天智十年)
 百濟の鎭將劉仁願、李守眞リシュシン等を派遣して上表。(天智十年)
 是月、百済からの亡命者に、その得手に応じて官位を授ける、五十餘人。
 二月、百濟、進調。
 六月、百濟、進調。
 是月、栗隈王を筑紫率となす。新羅、進調。
 七月、唐人・百濟の使人等、帰国。
 八月、高句麗の使者、帰国。
 十月、新羅、進調。
 十一月、對馬國司、筑紫大宰府に遣使して報告。今月二日、沙門道久ドウキュウ・筑紫君薩野馬サチヤマ・韓嶋勝裟婆サバ・布師首磐イハの四人、唐から還り來て曰く、「唐國の使人の郭務宗等六百人、送使の沙宅孫登ソントウ等一千四百人、あわせて二千人、乗船四十七隻、比知嶋に泊まる。こんなに多くの人と船が突然行ったなら防人が驚いて、戦になるかもしれないので、前もって知らせに来た。」
  (筑紫君薩野馬の帰還
 十二月、新羅の進調使、帰国。

七〇一年
  『倭国(大和)、武皇后改めて、日本国と曰う。』(則天武后)

七〇二年
  『長安二年(七〇二)冬十月、日本国、使を遺わして方物を貢す。』(則天武后)

七〇三年
  『長安三年(七〇三)、その大臣朝臣真人、来りて方物を貢す。朝臣真人とは、なお中国の戸部尚書のごとし。進徳冠を冠り、その頂に花を為り、分れて四散せしむ。身は紫袍を服し、帛を以て腰帯となす。真人好んで経史を読み、文を属するを解し、容止温雅なり。則天これを麟徳殿に宴し、司膳卿を授け、放ちて本国に還らしむ。』(旧唐書日本伝)