2019年2月17日日曜日

古代における尊称の順序について


 日本書紀の冒頭に、「國常立尊クニノトコタチノミコト」が出現する。
 その脚注に、「至って貴きを【尊】という。その餘りを【命】という。並びに【ミコト】という。以下これにならえ。」とあり、尊称の序列が、尊・命の順であることが明記されている。

 では、尊称としての 【神】はどうか。
 本文ではいっさい出現しないが、一書の群においては、土の神「埴安神」から始まり、イザナキの剣・杖・帯・衣等に由来する【神】たちが生成する。
 いずれも、【尊】に相当する貴人とは思えず、強いて言えば【命】と同格かと思える。後世の【守】(安房の守・薩摩の守等)に相当するかもしれない。
 ことによると、【尊】・【命】は王族出身者で、【神】は臣下から抜擢した優れた人物に与えられた称号かもしれない。
 従って、尊称の序列は、【尊】・【命】・【神】となる。

 記紀を通読していて感ずるのは、古代においては「神」と「人」との距離が非常に近くて、「人」より優れているものを全て「神」と認識していたのではないかとすら思う。
 とても現代の「神=GOD」のような感覚ではなかったように思える。

 古事記も日本書紀も、古代のことは、口唱により伝えられてきたものを、いずれかの時期に文書化したものであり、「カミ」という文字に「神」を使うのが常にふさわしいのかは疑問であろう。
 強いて言えば、【上】か。

 記紀において、伊奘諾尊イザナキノミコトと伊奘冉尊イザナミノミコトが結婚し、協力して、いわゆる国産み・神産みを行ったことには異論はなかろう。

 国産みとは、領土拡張行動のことで、あからさまに言えば侵略行動である。
 淡路島から始めて、四国、九州、北陸などとその周辺島嶼を奪取したもので、20数年を要したものと思われる。

 神産みとは、自らの後継者を生むとともに、拡張した領土を治めるための家臣団(閣僚等)を任命することである。
 後継者としては、素戔鳴尊スサノヲノミコトを指名した。
(生まれた御子5人のうち、唯一【尊】という尊称を付けられた)

 どのような閣僚が任命されたかを調べてみた。世襲か、その都度の任命かは不明。

大事忍男神(オホコトオシオ=大事を治める将軍)     内閣総理大臣    
風木津別之忍男神(カザモツワケノオシオ)                 大蔵大臣(副総理大臣)
              カズモチは勘定主計、ワキのオスヲは副総理で将軍       
大屋毘古神(オホヤヒコ、ヤは政庁の建物)                 宮内大臣       
大山津見神(オホヤマツミ、本来は霊山鎮護)               陸軍大臣       
   山祇(ヤマツミ)。                                          諸国の霊山の管理者
大綿津見神(オホワタツミ、ワタ=海)                海軍大臣       
      少童(ワタツミ)                                            諸国の水軍       
大戸日別神(オホトヒワケ、大問い分けの意味)            司法大臣       
石土毘古神(イワツチヒコ)                                  鉱石採掘大臣     
石巣比賣神(イワスヒメ)                                     砂金採掘大臣     
天之吹男神(アマノフキオ)                                  金属鋳造大臣、将軍  
速秋津日子神(ハヤアキツヒコ)                             港湾鎮護大臣(正)  
速秋津比賣神(ハヤアキツヒメ)                             港湾鎮護大臣(副)  
   沫那芸神(アワナギ)                                        河川管理長官(正) 
   沫那美神(アワナミ)                                        河川管理長官(副) 
   頬那芸神(ツラナギ)                                        湖沼管理長官(正) 
   頬那美神(ツラナミ)                                        湖沼管理長官(副) 
   天之水分神(アマノミクマリ)                              用水長官(アマ担当)
   国之水分神(クニノミクマリ)                              用水長官(クニ担当)
     天之久比奢母智神(アマノクヒザモチ)                    灌漑長官(アマ担当)
     国之久比奢母智神(クニノクヒザモチ)                                灌漑長官(クニ担当)
志那都比古神(シナツヒコ、風の神)                                情報・通信大臣    
久久能智神(ククノチ)   木の神。                                  森林管理大臣     
      句句廼馳(ククノチ)                                                            諸国の森林の管理者
        天之狭土神(アマノサツチ)  サツチ=国の区分け        国境長官(アマ担当)
        国之狭土神(クニノサツチ)                      国境長官(クニ担当)
鹿屋野比賣神(カヤノヒメ)別名 野推神(ノツチ)          牧野管理大臣     
      野槌(ノツチ)                                                                        諸国の牧野管理者
         天之狭霧神(アマノサキリ)  サキリ=土地の区分け         境界長官(アマ担当)
         国之狭霧神(クニノサキリ)                     境界長官(クニ担当)
         天之闇戸神(アマノクラト) クラト=蔵人                             徴税長官(アマ担当)
         国之闇戸神(クニノクラト)                                                   徴税長官(クニ担当)
         大戸惑子神(オホトマドヒコ)トマド=戸籍                          戸籍長官(正)   
         大戸惑女神(オホトマドヒメ)                                               戸籍長官(副)   
鳥之石楠船神(トリノイハクスフネ)                                      造船大臣       
           別名天鳥船(アマノトリフネ)。                       
大宜都比賣神(オホゲツヒメ)  別名倉稲魂神(ウカノミタマ)                                                                                                                                                      農業大臣(阿波国王兼務)
      保食神(ウケモチ)                                                               諸国の農業関連管理者
                  ケ=ゲ=ウカ=ウケ=食料の意                         
      ※  農業大臣が阿波王を兼務しているのは、四国の占領に伴い、「鳶王国」と                                    の関係修復を急いだ為であろう。
火之夜芸速男神(ホノヤギハヤオ)                                          高熱製鋼冶金大臣   
         火之炫毘古神(ホノカガヒコ)                                               溶鉱炉管理長官  
         火之迦具土神(ホノカグツチ)                                                  鍛造製剣長官

「魏志倭人伝」と「後漢書倭人伝」について

1. 「後漢書倭傳」と「魏志倭人傳」との関連

 歴史上、「後漢」のほうが「魏」より古い政権であることはよく知られている。
 ところが、古い政権「後漢」の歴史書「後漢書」が、後の政権「魏」の歴史書「魏志」より後に成立したことは、あまり知られていないのは、どうしたことであろうか。

 「後漢書倭傳」は、先に成立した「魏志倭人傳」を参考にしたのであろうが、「誤読」と「先入観による独断」をもって、無茶苦茶な「コピー」になっている。



2. 邪馬台国亡者よ目を覚ませ

 「ヤマタイ国」論争は、「古田武彦氏の一人勝ち」の形で決着が付いている(30年以前)。
 明治・大正時代の学者の説や、我も我もと出てきた自称有名な歴史学者などの説に惑わされてはならない。

 その第一は、ヤマタイ国と呼ばれる国は、なかったということであろう。
 范曄(5世紀の歴史学者)が、「後漢書倭傳」を書くに当たって、「魏志倭人伝(陳寿・3世紀の歴史学者が編纂)」を下敷きにしたのは理解できるが、その際、大変な誤読誤謬を犯している。
 陳寿は、「邪馬壹(壱)國(ヤマイコク)」と書いているのに、范曄は、「邪馬臺國(ヤマタイコク)」としてしまった。
 「壹」と「臺」とは似ているが、全く違う字である。
    「壹」「臺」
 中国の史書で、「邪馬臺ヤマタイ国」と記述しているのは、「後漢書」と、それを丸写しした「梁書」「隋書」のみである。
 しかも、日本書紀によれば、倭国が、自国名を「邪馬臺(台)国」などと云ったことは一度もなく、常に「」と云っている。
 この「邪馬臺ヤマタイ國」は、「邪馬壱ヤマイ國」に修正すべきであろう。
 3世紀当時、「倭」という字は、「イ」もしくは「ヰ」と発音された。

 後漢書倭傳を通読して感じるのは、概ね、魏志倭人伝の記述をなぞってはいるが、随所で誤読し、かつ、思いこみによる誤謬が見出されると云うことである。
 僅かな字数の全文の内で、少なくとも6カ所もある。
(よほど、そそっかしい人であったのか、あるいは、後漢書の付録でしかない「倭傳」などには、余り神経を使わなかったのかも)
 疑わしいとお思いならば、「魏志倭人伝」と「後漢書倭傳」とを対比してみて頂きたい。

 卑弥呼が提出した「国書(上表)」には「邪馬倭国ヤマイコク」と書いてあったと思われ、魏の朝廷では、「倭」と語音が似通っていて、二心がないという意味の「壹」字を使った「邪馬壹(壱)國」とされた。
 当時、「魏」は全国統一の道半ばであり、「蜀」「呉」と争っていた最中に、身内と信じていた「公孫」氏にも背かれ、これの征討に当たっていたが、従来、公孫氏を通じて中国中央政府に貢献していた「倭国」が、公孫氏を見限って、「魏」朝に直接接触を図った為、魏帝は、ことのほか喜び、「倭」に代えて「壹」字を与えたものと見る。
 「タイ」という字すら、誤読の結果なのに、現代日本の当用漢字「」に代えるなどもってのほかであろう。

 第2に、里程の読み方がある。
 古田氏の論証により、当時「魏」朝で使われたのは、極端な「短里」であり、その一里は、約76.6mである。
 従って、帯方郡都(現平壌付近)から出発し、邪馬壹(壱)國までの距離は、一万二千余里(約920km余り)となる。(終点は博多近辺である)
 この事実を、古田氏は、実に明快に証明しておられる。
 三国志全般の中から、現代でも地名が比定できる土地を選び、しかも誤差を考慮して比較的長距離を選定するなど、綿密に研究して居られる。
 圧巻は、周髀算経(魏代に成立)に基づく綿密な計算である。
 この論文も読んだこともない人は、「ヤマタイ国」などという理論を展開する資格がない。

 第3が、中国語の文法を正確に把握する必要がある。
 従来の「漢文」読みのように、テニオハをいい加減に付けると、行ってもいない「奴国」や「投馬国」にも、実際に行ったことになってしまう。(「行」という動詞がないにも関わらずだ) 
 従って、「邪馬壹(壱)國」の位置がとんでもない場所になってしまう。
 九州南方の海中のどこかだ。
 上記の里程と併せて考えれば、邪馬壹(壱)國の首都は、現福岡市内のどこかに中心があったと考えるのが至当であろう。(人口から見て、かなりの広がりをもっていた筈である)

 古田氏程に、緻密に論証に論証を重ね、自らの研究の過程を一切隠さず、しかも、くどいくらいに正確に論述した学者が居ただろうか。
 遠く8世紀の「日本書紀」の編纂者を含めて、古田氏の研究に匹敵するだけの考察をした学者を、寡聞にして、私は知らない。
 私などは、亜流の徒輩ではあるが、それでも、古田氏の主張の裏付けとなる資料を求めて、国会図書館にまで足を運ぶだけの熱意は持ち合わせている。

 古田氏に対して、いくつかの反論も出たが、理路整然とした古田氏の説明によって、勝負は付いてしまった。

 以後、東大・京大を含めた学者達は、いずれも沈黙戦術に終始している。(ある意味に於いては卑怯である)



3. 後漢書は嘘ばかり書いている

 5世紀の范曄という学者が、1~3世紀に亘る「後漢書」を編纂したのであるが、その付録である「後漢書倭伝」を記述するに当たり3世紀に完成されていた「魏志倭人伝」を下敷きとして利用したが、編者の「范曄」はかなりそそっかしい人物だったとみえ、随所で「誤読」という誤りを犯している
 「後漢」は、西暦25年に、光武帝(劉秀)によって「漢」として再興されてから、西暦220年に滅亡するまで、約195年続いた王朝であるが、滅びる際の戦乱によって、歴史資料の殆どが灰塵に帰してしまった。
 従って、「後漢書」は、長い間編纂されなかった。
 「後漢」が滅びてから約200年後(5世紀)に、范曄なる歴史家が、一念発起して書き上げたものが、現在残っている「後漢書」であるが、資料不足の為、無理矢理こじつけた箇所も多々あるようである。
 その際、付録である「倭伝」は、主要な部分が「魏志倭人伝」(陳寿・3世紀の歴史家)の丸写しなのだが、換骨奪胎も甚だしい。
 後漢の時代に、後漢の使節が倭国へと往来した形跡はなく、従って、これだけ詳しい情報が得られていたとは思えない。
 現代の我々は、范曄が陳寿の書いた「魏志倭人伝」をコピーしたことが判るが、そういう意味で観察すると、 范曄は、「見てきたような嘘を」を創作したとしか思えない。
 以下、逐条的に指摘したい。(本文中の赤字の箇所)

『倭在韓東南大海中。依山島爲居。凡百餘國。自武帝滅朝鮮、使驛通於漢者、三十許國。國皆稱王、世世傳統。其大倭王、居邪馬臺國。(李賢注、案今名邪摩惟音之訛也)』
『倭は韓の東南大海の中にあり、山島に依りて居をなす。凡そ百餘國あり。武帝、朝鮮を滅ぼして(前108)より、使駅漢に通ずる者、三十許國なり。國、皆王を稱し、世世統を傳う。その大倭王は、邪馬臺國に居す。(李賢注、案ずるに今の名の邪摩惟ヤマイの音はこれを訛る也)』

※ 「邪馬壹國ヤマイコク」を「ヤマタイコク」と誤読しているのである。卑弥呼が提出した「国書」には「邪馬倭国ヤマイコク」と書いてあったと思われ、魏の朝廷では、「倭」と語音が似通っていて、二心がないという意味の「壹」字を使った「邪馬壹國ヤマイコク」とされた。卑弥呼の後継王女の名前も、「壹與イ・ヨ」と中国風の呼び方で国書に署名したものと思われる。
 その証拠に、「後漢」の直後の政権「魏」の天子の詔勅でも、地の文でも「親魏倭王」或いは、「倭国」と書いてあり、決して「親魏臺王」或いは、「臺国」とは書いていないのである。
 この時代、朝廷もしくは天子を意味する「臺」と言う字は禁字であって、地名も人名も、全て同音異字に書き換えさせられた。
 従って、「邪馬の天子の国」と言う意味を表す「邪馬臺ヤマタイ国」などと言う表記は許される筈がないのである。
 ここに出てきた「李賢注」というのは重要な示唆を含んでいる。
 李賢という学者は、後漢書が編纂された時代より、はるかに後代の人であるが、彼が在世した時代に、「倭国」は、相変わらず、「邪摩惟ヤマイ=邪馬倭」と自称していたという証言であろう。
 「後漢」の時代はもちろん、「魏」「晋」「五胡十六国」「隋」の時代に至るまで、この国は「倭国イコク」と名乗っていたのであって、「邪馬臺國ヤマタイコク」と名乗ったことは一度もないのである。
 中国の史書で、邪馬臺国と記述しているのは、「後漢書」と、それを丸写しした「梁書」「隋書」のみである。
 本居宣長や、新井白石から始まって、明治・大正時代の歴史学者までが挙って「邪馬臺(台)國」と唱えて得々としているのは、「ヤマト」と読ませたいだけの話であろう。

『楽浪郡徼、去其國萬二干里。去其西北界拘邪韓國七千餘里。其地大較在會稽東冶之東。與朱崖儋耳相近。故其法俗多同。』
『楽浪郡徼(楽浪郡と韓国との境界)はその國を去る萬二干里、その西北界拘邪韓國を去ること七千餘里。その地、大較会稽の東冶トウヤの東にあり、朱崖・儋耳と相近し。故にその法俗多く同じ。』

※ 魏志では、「会稽東治トウチ」と、古の会稽(現山東省)の領主の善政について記述したのに、范曄は単に地名であると勘違いし、五世紀には、たまたま「会稽郡東冶県(現福建省)」という地名があったので、倭国は「会稽東冶トウヤの東」にありと断じてしまった。
 朱崖・儋耳は、現実には、どちらも広東省の海南島にあったという。
 魏志では、風俗が似ていると云っているだけなのに、范曄は地理的に近いと断定している。
 従って、倭国の位置は台湾島の近辺か沖縄県付近に有るという奇妙なことになってしまった。

『土宜禾稲紵麻蠶桑、知織績爲縑布。出白珠青玉。其山有丹。土気温腝、冬夏生菜茹、無牛馬虎豹羊鵲。其兵有矛楯木弓竹矢、或以骨爲鏃。男子皆鯨面文身、以其文左右大小、別尊卑之差。其男衣皆横幅、結束相連。女人被髪屈紒、衣如単被、貫頭而著之。並以丹朱坋身、如中國之用粉也。』
『土は禾稲・綜麻・蚕桑に宜しく、織績を知り、縑布を爲る。白珠・青玉を出し、その山には丹あり。土気温腝、冬夏菜茹を生じ、牛・馬・虎・豹・羊・鵲なし。その兵には矛・楯・木弓・竹矢あり、あるいは骨を以て鏃を爲す。男子は皆鯨面文身、その文の左右大小を以て、尊卑の差を別つ。その男衣は皆横幅、結束して相連ぬ。女人は被髪屈紒、衣は単被の如く、頭を貫きてこれを著る。ならびに丹朱もて身を坋すること、中國の粉を用うるが如きなり。』

『有城柵屋室。父母兄弟異處。唯會同男女無別。飲食以手而用籩豆。俗皆徒跣。以蹲踞爲恭敬。人性嗜酒。多寿考至百餘歳者甚衆。國多女子、大人皆有四五妻、其餘或両、或三。女人不淫不妒。又俗不盗竊。少争訟。犯法者没其妻子、重者滅其門族。其死停喪十餘日、家人哭泣、不進酒食。而等類就歌舞爲楽。灼骨以ト、用決吉凶。行来度海、令一人、不櫛沐不食肉不近婦人、名曰持衰。若在塗吉利、則雇以財物、如病疾遭害、以爲持衰不謹、便共殺之。』
『城柵・屋室あり。父母兄弟、処を異にす。ただ会同には男女別なし。飲食には手を以てし、籩豆を用いる。俗は皆徒跣。蹲踞を以て恭敬をなす。人性酒を嗜む。多くは寿考、百餘歳に至る者甚だ衆し。國には女子多く、大人は皆四五妻あり、其の餘も或いは両、或いは三。女人淫せず妒せず。又俗盗竊せず。争訟少なし。法を犯す者は其の妻子を没し、重き者は其の門族を滅す。
 其の死には喪を停むること十餘日、家人哭泣し、酒食を進めず。而して等類歌舞に就きて楽をなす。骨を灼きて以てトし、用って吉凶を決す。行来・度海には、一人をして櫛沐せず、肉を喰わず、婦人を近づけざらしめ、名づけて持衰という。若し塗にありて吉利なれば、則ち雇するに財物を以てし、如し病疾害に遭わば、以て持衰謹まずとなし、便ち共にこれを殺す。』

※ 魏志では「下戸も或は二・三婦」と、大勢の庶民の中には甲斐性のある男も居る、ということを書いているのに、後漢書では「大人以外でも二~三人の妻を持っていた」と解釈してしまった。その結果が「国には女子多く」という表現になった。

『建武中元二年、倭奴國、奉貢朝賀。使人自稱大夫。倭國之極南界也。光武、賜以印綬。』
『建武中元二年(57)、倭奴國、奉貢朝賀す。使人自ら大夫と稱す。倭國之極南界也。光武、賜うに印綬を以てす。』 (金印「漢委奴國王」福岡県志賀島で発見)
『安帝永初元年、倭國王帥升等、獻生口百六十人、願請見。』
『安帝の永初元年(107)、倭の國王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願う。』

※ この二つの記事は帝紀を元にした正しいものと思う。

『桓霊間、倭國大亂、更相攻伐、歴年無主。有一女子、名曰卑彌呼。年長不嫁、事鬼神道、能以妖惑衆。於是共立爲王。侍婢千人。少有見者。唯有男子一人、給飲食、傳辞語。居処宮室楼観城柵、皆持兵守衛、法俗厳峻。』
『桓・霊の間、倭國大いに亂れ、更々相攻伐し、歴年主なし。一女子あり、名を卑弥呼という。年長じて嫁せず、鬼神の道に事え、能く妖を以て衆を惑わす。ここにおいて、共に立てて王となす。侍婢千人。見るある者少なし。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞語を傳える。居処・宮室・楼観・城柵、皆兵を持して守衛し、法俗厳峻なり。』

『自女王國東、度海千餘里、至拘奴國。雖皆倭種、而不属女王。自女王國南四千餘里、至朱儒國。人長三四尺。自朱儒東南行船一年、至裸國黒歯國。使驛所傳極於此矣。』
女王國より東、海を度ること千餘里、拘奴國に至る。皆倭種なりといえども、女王に属せず。女王國より南四千餘里、朱儒國に至る。人長三、四尺。朱儒より東南船で行くこと一年、裸國・黒歯國に至る。使驛の傳うる所ここに極まる。

※ 拘奴國の位置を、女王国の東千余里であると誤読している。
 魏志の原文では、女王国に属する21ヶ国を記した後、「…此女王境界所盡。其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。…」とあり、誤読以前の問題であろう。
 又、裸國・黒歯國は地理的には、フィリッピン・インドネシアが相当するのだから、使驛の傳うる所という、この文はおかしい。

『會稽海外、有東鯷人、分爲二十餘國。又有夷洲及澶洲。傳言、秦始皇、遣方士徐福、将童男女数千人入海、求蓬莱神仙、不得。徐福、畏誅不敢還、遂止此洲。世世相承、有數萬家。人民時至會稽市。會稽東冶縣人、有入海行遭風流移、至澶洲者。所在絶遠不可往来。』
『会稽の海外に、東鯷人あり、分れて二十餘國と爲る。また、夷洲および澶洲あり。傳え言う、秦の始皇(前246~前210)、方士徐福を遣わし、童男女数千人を将いて海に入り、蓬莱の神仙を求めしむれども得ず。徐福、誅を畏れ敢て還らず。遂にこの洲に止まる」と。世世相承け、数萬家あり。人民時に会稽に至りて市す。会稽の東冶の県人、海に入りて行き風に遭いて流移し澶洲に至る者あり。所在絶遠にして往来すべからず。』

※ 東鯷人は、地理的には台湾島もしくは沖縄本島とみる。(前漢書・呉地の丸写し)
 夷洲及澶洲は、いずれも現広東州であるという。
 徐福の伝説は、和歌山県新宮市にもあるが、真偽のほどは疑わしい。

 全体的にみて、西暦57年と107年との二回に亘る記事、ならびに、東鯷人に関する記事には、或る程度の信憑性も感じられるが、それ以外は、全て、魏志倭人伝のみに頼っており、しかも多くの「誤読」又は「思い違い」の箇所が見いだされるところを見れば、「後漢書倭傳」は信用ならない。
 また、「後漢」の時代にこれだけの知識が後漢の朝廷内あるいは知識人達の常識となっていたのか否かは、極めて疑わしい。

 これについての、ご意見を賜りたい。

2019年2月11日月曜日

女王「卑弥呼」について

1.「卑弥呼」は天照大神の直系

 古代のある時期、天照大神は、葦原中国アシハラノナカツクニの統治者として、その孫(天孫)を、天下らせた、と記紀ともに記録している。

 以下、その様子をダイジェストしてみよう。
 天照大神は、葦原中国の統治者として筑紫嶋チクシノシマに天火明尊アマノホノアカリノミコト及び天番能邇邇芸尊アマノホノニニギノミコトの二人を派遣した。
(記紀の本文に於いては、天番能邇邇芸尊のみを派遣したことになっている)
 この王子達は、天照大神の孫にあたり、「天孫」と呼ばれる。

天火明尊の正式の諡号は、天照国照彦火明尊アマテラスクニテラスヒコホノアカリノミコト
といい、アマを治め、クニを治める王という意味を持つ(日本書紀一書(八))
天番能邇邇芸尊の正式の諡号は、天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸尊アマニギシクニニギシアマツヒコヒコホノニニギノミコトといい、アマの為に祈り、クニの為に祈る王という意味を持ち、祭祀担当の副王である。

 天孫の派遣に当たって、兄の天火明尊は、かなり成長していた様であるが、弟の天番能邇邇芸尊は未だ幼児であり、衾フスマにくるまれ、母に抱かれていた。

  天孫の一行は、天忍日尊及び天津久米尊が指揮する親衛隊に護衛され、沿道で歓呼して見送る住民を掻き分け掻き分け、アマ国内を南北に縦断した。
 諸々においてアマ王朝の威厳を示しつつ行進し、アマ国の南岸(釜山か馬山あたりか)に着いた。
 更に、天孫一行は、大国主神から差し向けられた案内人の猨田毘古尊サルタヒコノミコト(津島国王か)の誘導に従って、アマを離れクニに向かった。
 一行は、天の浮橋アマノウキハシ(軍船)に乗って対馬、壱岐を経て対馬海峡を越え、唐津(佐賀県)付近に上睦した。
 唐津付近からは陸路東の方向に進み、笠沙埼カササノミサキ(糸島半島)に至った。
 そこは、筑紫嶋チクシノシマの首都の地であり、筑紫嶋国王の事勝国勝長狭コトカツクニカツナガサ(伊邪那岐大神の子孫)が、大国主神に命ぜられて、出迎えに参上していた。

 天火明尊は、事勝国勝長狭の案内で福岡湾岸の地方を巡視した後、竺紫の日向チクシのヒナタにおいて新王朝の経営を開始した。

 古事記には、天火明尊が次の様な詔勅を出したとある。
「この土地は、韓国カラクニに向かって笠沙の岬から真っ直ぐの場所で、朝日も夕日も差す日向ヒナタの国である。良い土地である。」
 記紀では、天孫が降臨した場所は、「日向ヒムカの高千穂峰タカチホノミネ」と記述されており、この表現は、天空から降りてくる場所としてはふさわしいが、現実の人間として、アマ国から降臨するとなれば、やはり本稿に記したように、アマ~唐津~糸島半島と辿った場所の方がふさわしい。
 新たに設営した「筑紫王朝」の首都は、現在の福岡市中央区・博多区・南区を含む地域と見られ、その地域の真ん中を流れる川を「那珂川(中川)」と名付けたと見える。
 時に、西暦紀元前一三〇年頃の事であった。(二倍年歴で逆算した)
 この王国「筑紫王朝」の名称は、いつの頃からか、「倭国イコク」と呼ばれる様になった。
 後に、魏志倭人伝で「邪馬壹国ヤマイコク(邪馬倭国)」として紹介される倭人の王朝である。

 この王朝は、九州を直轄領とし、葦原中国の、その他の領土(アマ国、葦原王国、四国)には従来の国王をそのまま存続させた。
 因みに、「九州」という名称は、古代の中国においては天子が直接統治する地域の範囲をいい、倭王は、そっくりこれを真似して、直轄領を「九州」と称していた。

  後の大和王朝の立場からいえば、自らの出自が「天孫族」で、遠祖が天番能邇邇芸尊であることが重要なのであって、天孫として天降ったのは、天番能邇邇芸尊のみとし、日本書紀の本文ではそのように記述している。
 しかし、全く嘘をつくわけにもいかないので、一書(八)において、さりげなく、天火明尊の正式の諡号(天照国照彦火明尊)を記している。
 つまり、8世紀に、自らの力で併呑してしまった宗家(倭国)の家系などは、記述しないばかりか、抹殺の対象であろう。
 従って、「筑紫王朝(倭国)」の初代大王の天照国照彦火明尊とその子孫に関する事績は一切書いてない。
 また、初代副王天番能邇邇芸尊の正系の子孫についても記述がない。

 幻の「九州王朝史」の様なものがあれば、明記されていたのかもしれない。
 しかし、中国の史書は、永年に亘って「朝貢」を続けてきた「筑紫王朝」を、「邪馬倭国ヤマイコク」もしくは「倭国イコク」として、「漢書」「魏志」「晋書」「宋書」「梁書」「隋書」「旧唐書」に記録し続けていた。 つまり、「筑紫王朝」は天照大神の正系(傍系でない)の王朝である。

 卑弥呼は、この連綿と続いてきた「筑紫王朝(邪馬倭国)」の女王として、「魏志」に登場する。
 決して、大和王朝の「某女帝」としてではない。

 大和王朝が中国と外交を始めたのは、8世紀、中国の「唐」の時代となってからであり、「小野妹子」が第1次遣唐使として登場するのである。
 それ以前の外交は全て、「筑紫王朝(倭国)」が実施していた。

 この「結論」に異論のある方は、日本書紀の「外交」に関する部分のみを抜き書きして、精読されることをお勧めいたします。
 なに、それほど難しいことではありません。
 パソコンを使えば、原文の「コピー」「整理」「検索」など、すぐ出来るし、半月ほどの勝負でしょう。



2. 「卑弥呼」の宮殿は壮麗であった

 弥生時代の人々は、みんな掘っ建て小屋に住んでいたのか。
 全国の古代遺跡を再現した公園には、掘っ建て小屋ばかりが並んでいる。
 縄文末期と見られる大国主神ですら、出雲様式といわれる壮麗な「宮殿」にお住まいではないか。
 現代の我々が考える以上に、建築技術は進んでいたと見て間違いなさそうである。
 なるほど、資力の乏しい庶民は、藁葺きの4~6本柱の半土間の家に住んでいたかも知れないが、王侯貴族ともなれば、立派な宮殿に住んでいてもおかしくはない。

 日本書紀によれば、天番能邇邇芸尊アマノホノニニギノミコトの御子火遠理尊ホオリノミコトが、竹で編んだ小舟に揺られて着いた綿津見尊ワタツミノミコトの屋敷は、壮麗な宮殿であったとされる。

 時代は下がって3世紀の卑弥呼は、婢1、000人にかしずかれていたとされる。
 少なくとも、その5%程度(50人)の女性が、常時、女王卑弥呼と同じ場所に出入し、奉仕していたと見なければならない。
 すると、かなり大きな建物あるいは建物群が必要になってくる。
 その他の女性は、炊事・洗濯・掃除・庭の景観の維持等に従事していたのであろう。
 これらの女性達を収容する大規模な建物群が必要になってくる。

 更に、「男弟」と記述されている「副王」が実際の政務を行っていた政庁としての建築物も、大勢の家臣団が政務を補佐していた筈で、大規模な建物群があったと見なければならない。

 この時期、中国に於いては、「臺タイ」と呼ばれる豪壮な宮殿群が建ち並んでいた。
 このような宮殿を見慣れていた筈の「魏」の使節が、「宮室・樓觀・城柵、嚴かに設け、常に人有り、兵を持して守衛す。」と感嘆して記述しているように、卑弥呼の宮殿は木造建築なりに、壮麗なものであったに相違ない。
 「樓觀」という語感からすれば、数階建ての建築物であって、単なる火の見櫓や見張り台などのような粗末な物である筈はなく、ことによれば、「三重の塔あるいは五重の塔」の可能性もある。
 「城柵」という語句があるところを見れば、この宮殿は、「城」としての機能も持っていたと思われる。
 何故、このような遺跡を再現しないのか不思議でならない。



3. 「卑弥呼」の宮殿には文字官僚が居た

 魏志倭人伝に拠れば、卑弥呼は「上表した」とあり、当然、卑弥呼の宮廷には中国語に堪能で、中国語の文章を書き、特に「表」という外交文書の書式も知り尽くした官僚が居たはずである。
 その官僚が渡来人であるか否かは判らないが、複数の人員で構成される一部署があったものと思われる。

『楽浪海中倭人イジン有り。分れて百餘国を為す。歳時を以て来り献見す、と云う。』(漢書燕地)
  とある様に、卑弥呼の邪馬壹国ヤマイコク(九州王朝あるいは筑紫王朝)は、前漢の時代から、朝鮮半島に所在した、「中国の出先機関」を通じて、中国に朝貢を続けていたということで、中国語の素養を持つ人材も多数いたと見て良い。

 卑弥呼が中国に遣使した、難升米等の正使・副使の他に、随員の中に通訳としての職務を持つものが含まれていたであろうことは想像がつく。
 続けて、「魏」の使節団が来訪したり、「倭国」の使節が訪中したりして、良好な関係が維持された。

 大和朝廷に文字が伝来したとされるのは、応神天皇の16年とされるが、従来の一倍年歴では西暦286年のこととされていた。二倍年歴で換算すると西暦410年前後になる。

 ただ、この記事は怪しい。
 たかが、王仁という学者が、「論語」「千字文」という文書を持参して奉納し、皇太子の家庭教師になったという話であって、これが、「文字」が初めて大和朝廷に伝えられた記録であるか否かは、今となっては想像以外の手段がない。
 大和朝廷にこれ以前に文字が伝わっていた可能性もある。
 その辺は、皆様の想像力に任せましょう。

 卑弥呼の最初の貢献は、「魏」の景初二年(238)の事であり、いずれにしても大和朝廷よりよほど早い時期に文字を駆使していたことになる。
 紀元前かもしれない。