2017年6月16日金曜日

二倍年歴という概念

 二倍年歴という概念

 古代における歴年の計算には、二倍年歴という概念を導入する必要がある。
 二倍年歴とは、例えば、日本書紀に神武天皇が127歳まで生きたと記述されてあるが、実際はその半分の63~64歳であったとする計算法であり、この方式によれば古代における歴代天皇の異常な長寿の謎が解けるであろう。(古事記では、神武天皇は137歳まで生存。この古事記と日本書紀との10年の開きは、初代神武天皇の崩御後、二代綏靖天皇の即位までの間、異母兄の手研耳命の統治期間であったようである。)

 二倍年歴の根拠は、魏志倭人伝の注記にある。
『魏略に曰く、其の俗、正歳四節を知らず、但、春耕秋収を計りて、年紀と為す』
 つまり、魏志倭人伝が記された三世紀当時の「筑紫王朝」(大和王朝も同じ)は、中国で通用している陰暦を知らず、春分・秋分の日を元旦として、一年を二歳に数えていたという事実である。
(どのようにして春分・秋分を知り得たかは、別に考察する必要が有ろう)

 この二倍年歴は、大和王朝では、第二十六代継体天皇まで続き、第二十七代安閑天皇からは現代と同じく一年を一歳に数えていたようである。

 その根拠は、継体天皇の崩御の年次と干支にある。
 日本書紀の本文では、継体二十五年(辛亥五三一)に82歳で崩御とあるが、或る本に拠ればとして、二十八年(甲寅五三四)に崩御されたとある。
 実は、日本書紀の編者は「百済本記」に『辛亥年(五三一)、…日本の天皇及び太子・皇子、倶にかむさりましぬ』とあるを採って本文にしたのであった。
 この記事は、「筑紫王朝」の王者「磐井父子」の戦死の記録なのである。
 継体天皇崩御の年次は或る本の二十八年のほうが正しい。
 継体天皇の末年(五三一)、大和王朝は筑紫王朝を奇襲攻撃し、磐井父子を討ち取ったが、その際、筑紫王朝で使用されていた「陰暦」の知識を吸収し、新知識として採用したものと思われる。
 継体天皇は、第二十七代安閑天皇に譲位されて、その日の内に崩御されたのであって、一応安閑天皇以下の各天皇の記録は、陰暦に概ね一致するようになった様である。
 安閑・宣化・欽明朝時代の外交記事は、多少の矛盾は見られるが、概ね妥当な年次であろう。(5年~10年の誤差は、資料が求めにくい時代であるので、やむを得まい)

 「筑紫王朝」がいつ頃から「陰暦」を使い始めたのかは、霧の彼方の謎であるが、恐らく、卑弥呼の貢献以後、比較的早い時代であろう。

 では、神武天皇から継体天皇に到るまでの、歴代天皇の即位の年次はどのように書き換えたらよいのであろうか。

 ここで、神功皇后の「摂政」に関する疑問を考えたい。
 古事記では、神功皇后の事績は、「新羅征伐」、「皇子の出産」、「皇子の異母兄弟の討伐」の三つしかなく、皇子が成人するまでの間、「摂政」として政務を執ったことなどは全く書かれていない。
 一方、日本書紀では、69年間も「摂政」を務めたことになっていて、矛盾している。
 (魏志倭人伝の「卑弥呼」と同一人物にするための苦肉の策か)
 仮にこの69年間を事実と認めたとすると、皇后の崩御の後、応神天皇は70歳で即位されたことになり、まことに不自然である。
 皇子(応神天皇)が幼児である頃に即位したとしても、当時としては、不思議ではなく、成人するまでの政務は、有能な家臣(竹内宿禰)が居り、十分に補佐した筈である。神功皇后は皇子が即位するまでは、母親として振る舞っていたと見る(摂政に準じた存在)。
 つまり、日本書紀に「摂政」として記されている年月の内、69年間は、架空のものと見て良かろう。

 神武天皇が即位された年は、前述の安閑天皇の元年(西暦五三四年)を基準として、従来の一倍年歴で計算すれば1193年遡った西暦紀元前六六〇年になっていた。
 しかし、神功皇后紀の内、実体のない69年という年月を差し引けば、1124年さかのぼる西暦紀元前五九四年前後となろう。
 二倍年歴では562年さかのぼった西暦紀元前三十年前後になる。
 記紀の編纂者達が、どの様な資料を基にして神武以来の各天皇の在位期間を計算して記録したのか、今となってはうかがうすべも無いが、讖緯説などによって在位期間を無理に引延ばしたとは思えない。
 ここは素直に二倍年歴があったとされる事実を認めて「神武天皇は、西暦紀元前三十年前後に即位した」と考えては如何であろうか。
 当時26歳前後であったので、その誕生は紀元前五十六年前後であろう。

 又、日本書紀に記されている、継体天皇以前の歴代天皇の年齢及び在位期間は、半分にする必要があろう。
 「神武、綏靖、安寧……」と続く歴代天皇の即位年を、二倍年歴で換算した西暦年号で列挙すれば次のようになる。

初代    神倭伊波禮毘古命(神武天皇)        前30年 前後
第2代   神沼河命(綏靖天皇)           14年 前後
第3代   師木津日子玉手見命(安寧天皇)       31年 前後
第4代   大倭日子鉏友命(懿徳天皇)         50年 前後
第5代   御真津日子訶恵志泥命(孝昭天皇)       67年 前後
第6代   大倭帯日子國押人命(孝安天皇)        109年 前後
第7代   大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)      160年 前後
第8代   大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)      198年 前後
第9代   若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)      227年 前後
第10代  御真木入日子印恵命(崇神天皇)        257年 前後
第11代  伊久米伊里毘古伊佐知命(垂仁天皇)    291年 前後
第12代  大帯日子淤斯呂命(景行天皇)          341年 前後
第13代  若帯日子命(成務天皇)                371年 前後
第14代  帯中津日子命(仲哀天皇)              401年 前後
第15代  品陀和気命(応神天皇)                406年 前後
第16代  大雀命(仁徳天皇)                    428年 前後
第17代  伊邪本和気命(履中天皇)              472年 前後
第18代  水歯別命(反正天皇)                  475年 前後
第19代  男浅津間若子宿禰命(允恭天皇)        477年 前後
第20代  穴穂命(安康天皇)                    497年 前後
第21代  大長谷若建命(雄略天皇)              499年 前後
第22代  白髪大倭根子命(清寧天皇)            509年 前後
第23代  弘計之石巣別命(顕宗天皇)            511年 前後
第24代  億計命(仁賢天皇)                    513年 前後
第25代  小長谷若雀命(武烈天皇)              518年 前後
第26代  袁本杼命(継体天皇)                  521年 前後
第27代  広國押建金日命(安閑天皇)            534年 前後