2019年3月26日火曜日

三王朝併立(概要)

三王朝併立の時代があった(概要)


はじめに (その概要)

 古代における「王朝」とは、ある強大な国力(武力)を持った大国に従う国々の集合体であり、他の大国との境界付近においては、相互不可侵の取り決めがなされていた模様である。
 実は、これ以前にも「王朝」に準ずる形で、「王国」と言うべき姿が垣間見える。
  即ち、葦原王国(石見・出雲が中心)、熊襲王国(現九州南半部)、鳶王国(現近畿地方)が有ったと見られる。
 これらの「王朝」を維持するためには、適切な時期に、たびたび「武力による示威行動」を行う必要がある。

 日本列島に初めての王朝(大王国)が出現したのは、伊邪那岐神・伊邪那美神による国造りに依ったことは、古事記・日本書紀の冒頭に明記してある。
 この王朝を仮に「葦原王朝」と名付ける。
 この王朝は、その国名を最初は「豊葦原千五百秋瑞穂之地」とし、大発展の後「大八島国」と変えていった。
 その統治範囲は、北から現新潟県を含む北陸地方一帯、中国地方、四国・淡路島全土、九州全土、現韓国地域(高天原)及び周辺島嶼群であった。
 二倍年歴で逆算すると、紀元前200年前後と見られる。

 次いで、その御子の須佐之男神の時代に、初めに「葦原中国」次いで「八島国」と名を変えた。
 紀元前170年前後と思われる。

 高天原を統治する天照神と須佐之男神との間に、諍いがあったが、紆余曲折の末、条約が結ばれ、いずれかの時期に天照神もしくはその子孫が、日本列島の統治権を得ることが定められた。
 
大国主神(須佐之男神の後継者)の時代、前記の条約に基づき、天照神の孫(天孫)が、高天原から九州地方の降臨し、筑紫王朝」を開基した。
 この王朝は、国名を「倭国イコク」とした。
 紀元前130年前後と見られる。

 この王朝は、元の「葦原王朝」の統治範囲をそっくり継承した。

 天孫は、兄である「天照国照彦火明尊アマテラスクニテラスヒコホノアカリノミコト」と、弟の「天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸尊アマニギシクニニギシアマツヒコヒコホノニニギノミコト」の二人による兄弟統治の形を採った。

 この王朝の正系子孫については、日本書紀の記録からは消されてしまうが、王朝そのものは、永く朝鮮半島や中国歴代王朝との外交を行い、八世紀に「大和王朝」に併呑されるまで存続した。

 日本書紀の記録にはないが、中国の歴代史書には、「倭国イコク」もしくは「邪馬倭国ヤマイコク」として、輝かしい存在を示している。(後述)

 初代副王の邇邇芸尊ニニギノミコトの傍系の孫に、鵜草葺不合尊ウガヤフキアエズノミコトがおり、日向の国において、官職にも就かず、地方豪族として存在したが、四人兄弟の御子が生まれた。

 その兄弟は、「筑紫王朝」の承認と援助を受け、「鳶王国(現近畿地方)」の打倒に旅立った。

 即ち、五瀬尊イツセノミコト、稲氷尊イナヒノミコト、御毛沼尊ミケヌノミコト、若御毛沼尊ワカミケヌノミコトの四人である。

 この四人は、「鳶王国」との緒戦に敗れて五瀬尊を失い、次いで海難事故に遭って稲氷尊と御毛沼尊を失うが、末子の若御毛沼尊(後の神武天皇)が生き残り、苦戦しながらも「鳶王国」打倒に成功し、「大和王朝」の基礎を造ることに成功する。

 一方、筑紫王朝は、開基以来100年も経過すると、政権に緩みが出来て、前述の「武力による示威行動」を十分に行わなかったと見えて、その威令が傘下の諸国に届かなくなり、各国が独立してしまう。

 即ち、高天原では、「百済」「新羅」が独立し、「任那」地域だけが「倭国」の直轄領として残った。
 日本列島内では、各国は筑紫王朝を宗主国として尊重はするが、政治そのものは各国ごとに独立的に行うようになった。即ち、葦原王国、四国、熊襲国、大和がそれである。

 その内「葦原王国」は、統治範囲が広大である上、当時最も先進的な文化国家であった為、「王朝」としての性格をもっていた。(細部については後述)

 「大和」は、当初は「筑紫王朝」の植民地であったが、時代の経過に伴って統治範囲も広がり、次第に「王朝」としての性格を持つようになった。

 かくて、一世紀から八世紀に亘って、「筑紫王朝」「葦原王朝」「大和王朝」が並立することになり、多少の軋轢はあったが、概ね平和的に併存していた。