2019年12月1日日曜日

三王朝併立(2)

三王朝併立の時代があった(2)

第二 筑紫王朝

 この王朝は、かつてスサノヲがタカアマハラの併呑に失敗したおり、自らの統治下の「葦原中国」をアマテラスに譲り渡すと放言したことを、その成立の根拠とした。
 文字が普及する以前の王者の発言は、現代では考えられないほどの重みを持つものであった。

 崩御したアマテラスの再生として幼い王女が同じく「アマテラス」を名のり即位したが、成長するに及んで思い出すのが、葦原中国をアマテラスに譲り渡すと発言したスサノオの言葉である。

 アマ国は、かつて(天御中主尊アマノミナカヌシノミコトの時代)大陸の文化の伝承国として、クニ(葦原中国)より上位の国として存在した事もあるが、アマテラスの時代になると、クニの文化の方が格段に優れたものになっており、アマから見ればうらやましいものであった。

 そこで、スサノオの後継者たる大国主神の時代に、アマテラス側は、「約束通り国を譲り渡してほしい」と、三回に亘って使節を派遣して交渉に当たるが、オオクニヌシ側は、「数十年経った今、そんな約束は無効である」と解釈し、外交交渉は難航した。

 業を煮やしたアマテラス側は、兵力を整え、出雲の政庁に対する奇襲攻撃により、オオクニヌシ以下「葦原中国」の主要な人物を捕虜にして、政権の委譲を迫った。

 オオクニヌシは、神託によってこの要求の回避を図るが、皮肉なことに、この神託はアマテラス側に有利なように示されてしまった。
 その時代、神託の効力は絶対的なものであって、オオクニヌシも屈服せざるを得なかった。

 アマテラスは、すでに老齢故、その孫に当たる二人の兄弟「天照国照彦火明尊アマテラスクニテラスヒコホノアカリノミコト」及び「天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇芸尊アマニギシクニニギシアマツヒコヒコホノニニギノミコト(この二人を天孫という)に自らの政権の主要な閣僚等を付けて、アマから筑紫へと降臨させ「筑紫王朝(九州王朝)」を発足させた。

 このように、政権を武力によって奪取したわけでもなく、まして統治者たる二人の兄弟も未だ若年であったため、直接統治する地域は九州島(熊襲の本領たる現鹿児島地方を除く)に限られた模様である。
 それでも、オオクニヌシを含め、旧「葦原中国」傘下の各国は、筑紫王朝を宗主国として認めることになった。
 二倍年歴で逆算すると、紀元前130年前後のことであった。

 この筑紫王朝は、百年程度の期間が過ぎると、政権にゆるみが生じ、傘下に置いてあったはずの各国に独立の気配が濃厚になった。
 即ち、紀元前57年、アマテラス傘下のシンルが「新羅」として独立し、紀元前18年にはアマテラスの直轄地のアマが「百済」として独立し、朝鮮半島で、筑紫王朝の支配下に残ったのは「任那」地域のみになったしまった。
 日本列島内では、旧葦原王国は、オオクニヌシの子孫が統治し、その地域的な広さと進歩的な文化のために、半ば「王朝」的な存在となった。四国は、ツキヨミの子孫が自立し、熊襲は最初から反抗的であった。

 この筑紫王朝は、記紀には「熊襲」と混同したり、「西州」などという呼び名で出現するほかには、殆ど記載されていないが、中国や朝鮮の資料にはその動静が頻出している。
 又、筑紫王朝の元号と見られるものが、西暦522年の「善化」から698年の「大長」まで発見されている。特に、531年の「発倒」は、大和政権による筑紫政権への侵攻の年である。

 筑紫王朝の首都は、幾度か遷都された模様で、筑後風土記には、西暦531年に、衙頭ガトウ政庁)や、これを護る形に配置された石人・石馬などが大和の兵によって破壊された事象が記録されている。
 菅原道真が嘆きながら赴任した「太宰府」も、中国の皇帝の最重臣「太宰」の政庁という意味を持っており、筑紫王朝最後の首都であろう。

 大和王朝が遣唐使を派遣するまでの殆どの外交はこの筑紫王朝が担っていたようである。
 即ち、日本書紀に頻出する朝鮮半島との関わりにおいて、地理的関係と、時間的な要素を見るに、筑紫王朝でなければ納得できる答えが見いだせないのと、度々出てくる「その氏を知らず」に類する「文言」である。
 およそ、一国の代表として朝鮮半島にまで出張した外交官や武人の氏素性が知られていないなどと言うことが有ろうか。
 これは、日本書紀を編纂した8世紀の大和朝廷の史官が扱う資料が、大和朝廷以外の物(筑紫王朝の資料)だった証拠ではあるまいか。

 外交関係を概括してみよう。

 先ず「後漢」の時代、西暦57年に朝貢。金印を授与されている。
 更に107年にも、中国に朝貢、倭国王帥升が「生口160人を献ず」と記されている。

 238年、「卑弥呼」が朝貢。
 240年、「魏朝」から答使。
 243年、「卑弥呼」再び朝貢。
 245年、「魏朝」から答使。
 247年、倭国は、熊襲との軋轢を報告。「魏」は、答使を派遣。
 264年頃、卑弥呼が崩御。
 266年、卑弥呼の後継者「倭女王壹與」が朝貢。

 280年、任那の加羅國が筑紫に朝貢。

 368年、新羅が任那を侵略したので、兵3000をもって討伐。

 370年、百済王から献上された七枝刀の銘文に、当時の倭王の名「旨」が明記されている。

 382年から389年にかけて、新羅が任那を侵略。兵3000をもって討伐。その王子未斯欣を質として抑留。
 この十数年の間、使節や武将の名が度々出現するが、全て「その姓を知らず」となっている。

 398年から399年にかけて、高句麗は大軍を発し、百済・新羅に侵略。倭王は兵力の不足を感じ、友邦と信じていた大和に援軍の派遣を要請。
 400年、筑紫の要請に応じ、大和の仲哀天皇はかなりの兵(1万名以上か)を率いて穴戸(現山口県)に到着。筑紫の兵力を過小評価し、神功皇后や臣下の反対を押し切って、筑紫王朝に攻撃を開始した。
 筑紫の兵は強く、矢戦の中、大和の司令官(仲哀天皇)は戦死する。
 副司令官(神功皇后)以下は降伏し、その兵は、筑紫の傘下に置かれることになった。

 筑紫王朝は、大和の兵を含め大兵力を任那の安羅に推進し、激戦の末、高句麗軍を撃破した。
 大和の兵は、安羅に残留することになり、神皇后は、少数の兵とともに大和へ帰還することになった。

 402年、新羅は約に背き、反抗する。
 これを安羅に残留していた大和の兵をもって鎮圧した後、大和の兵は、帰還を許されたのであろう。

 411年、漢人の「司馬曹達」が中国国内の内乱を避け、隷下の部族多数を率いて来朝し、帰化した。

 413年、倭王「」が「東晋」に朝貢。

 415年、高句麗王の使者来朝。その国書の文面無礼につき、追い返す。

 421年、倭王「」が「劉宋」に朝貢。
      使者は、司馬曹達(阿知使主アチノオミ)とその息子(都加使主ツカノオミ)。
 425年、倭王「」が「劉宋」に朝貢。

 429年、高句麗が、鉄盾・鉄的をもって来朝。

 430年、倭王「」が「劉宋」に朝貢。
 
 432年、新羅が反抗するので、兵3000をもって討伐。
 
 438年、倭王「」が「劉宋」に朝貢。 
 443年、倭王「」が「劉宋」に朝貢。

 450年、新羅が反抗するので、兵3000をもって討伐。

 451年、倭王「」が「劉宋」に朝貢。
 452年、「劉宋」の使節来朝。
 460年、倭王「」が「劉宋」に朝貢。
 461年、倭王「」が「劉宋」に朝貢。
 462年、「劉宋」の使節来朝。

 464年から467年にかけて、新羅及び高句麗と戦う。

 477年、倭王「」が「劉宋」に朝貢。
 478年、倭王「」が「劉宋」に朝貢。
 479年、「劉宋」の使節来朝。

 500年頃から515年に至る間、百済は、高句麗の侵略により、北東部を奪われ、更に、力を付けた任那のハヘ国によって国土に侵攻され、これに対処するため、筑紫王朝は、度々多数の兵力を渡海させたため、国力は次第に消耗した。

 このため、「大和」に援兵を要請したものと見えて、大和からは、大伴金村大連オオトモノカナムラオオムラジが、かなりの兵力を伴って派遣されてきた。
 大伴大連は、筑紫王朝に協力し、それなりの役割を果たしたものと見えるが、現地に不慣れなせいか、失敗も犯した。

 531年、大和王朝は、新羅を討伐することを名目とし、近江毛野臣オオミノケヌノオミに6万の兵を与え、筑紫に進駐させた。

 大和王朝第26代継体天皇は筑紫の弱体化を確認し、物部大連麁鹿火モノノベノオオムラジアラカヒに、筑紫王朝の征服を命じた。
 物部大連麁鹿火は、先遣されていた6萬の兵を掌握し、筑紫王朝を急襲打倒し、筑紫の王者「磐井君」及び太子等は討ち死する。

 筑紫王朝は、生き残った王子「筑紫君葛子」の反撃と粘り強い交渉により、賠償としての僅かな地域を与えただけで、講和に成功する。

 しかし、この事変以来、大和は度々朝鮮における外交に干渉することになる。
 只、その対応は、不慣れなことが多く、無能な官吏(近江毛野臣)を任那に派遣する等、不毛の施策を多く行った。

 535年頃から605年にかけて、筑紫は、大和と協力して、めまぐるしく変化する南部朝鮮半島の情勢に対処するが、結果的に、任那の滅亡を早めてしまう。

 607年、倭王「多利思北孤タリシホコ」、中国の新王朝「隋」に遣使。
 国書に有名な「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや、云云」との文言を書き、隋帝の機嫌を損ず。

 608年、「隋」の答使「文林郎斐清ハイセイ」来る。
 610年、「文林郎斐清」を還送しつつ朝貢。(大和の小野妹子が同行)

 631年から660年頃にかけて、度々「唐」に遣使。
 その間の事情を述べた大和側の証言もある。
 大和の第7次遣唐使の一員として参加した伊吉博得イキノハカトコが、遣唐使の消息を述べた中で、「…唐朝において冬至の会が催され、参会した諸国の中で、倭の客が最も勝れている。…」と記し、筑紫の倭人を名指しで褒めている。
 また、「別の倭種、韓智興・趙元寶も使人とともに帰る」と述べ、「大和人」と「倭人」とを区別している。

「大和人」と「倭人」とを混同しているのは、現代人を含めた後世の人たちであって、少なくとも、日本書紀編纂の時代には、はっきりと区別されていた。

 663年、史上有名な「白村江」の戦闘に、筑紫王朝の王者「筑紫君薩野馬サチヤマ」は、自ら出征して参戦、唐・新羅連合軍に大敗して捕虜になる
 8年後に許されて帰還するが、この戦いで国力の大半を失い、王朝は凋落して、大和に併呑されることになった。