2017年9月1日金曜日

日本最古の大王(大神)

 宋書倭國傳に、倭王「武」の「上表」の全文が記録されている。

『順帝(劉宋、第八代、最後の天子)の昇明二年(478)、使を遣わして表を上る。いわく、「封國は偏遠にして、藩を外に作す。昔より祖禰ソデイミズカら甲冑を擐ツラヌき、山川を跋渉バッショウし、寧処ネイショに遑イトマあらず。東は毛人を征すること五十五國、西は衆夷を服すること六十六國、渡りて海北を平ぐること九十五國。王道融泰にして、土を廓き畿を遐にす。累葉朝宗して歳に愆オコタらず。臣、下愚なりといえども、恭なくも先緒を胤ぎ、統ぶる所を駆率し、天極に帰崇し、道百済を遥て、船舫を装治す。しかるに句驪無道にして、図りて見呑を欲し、辺隷を掠抄し、虔劉して已まず。毎に稽滞を致し、以て良風を失い、路に進むというといえども、あるいは通じあるいは不らず。臣が亡考済、実に寇讐の天路を壅塞するを忿り、控弦百萬、義声に感激し、方に大挙せんと欲せしも、奄かに父兄を喪い、垂成の功をして一簣を獲ざらしむ。居しく諒闇にあり、兵甲を動かさず。これを以て、偃息して未だ捷たざりき。今に至りて、甲を練り兵を治め、父兄の志を申べんと欲す。義士虎賁文武功を効し、白刃前に交わるともまた顧みざる所なり。もし帝徳の覆載を以て、この彊敵を摧き克く方難を靖んぜば、前功を替えることなけん。窃かに自ら開府儀同三司を仮し、その餘は咸な仮授して、以て忠節を勧む」と。詔して武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六國諸軍事、安東大将軍、倭王に除す。』(宋書倭國傳)

 赤字で表してある部分であるが、自ら甲冑を着用して、戦場に立った祖禰(ソデイ、祖先)の王者とは、伊邪那岐尊(イザナキノミコト)神倭伊波禮毘古尊(カムイイハレヒコノミコト、神武天皇)の二人だけである。

 二人の内、神武天皇は、東征はしたけれど、西と海北には兵を動かして居らず、ここに記述してある祖禰には当たらない。

 では、伊邪那岐尊について考えよう。
 伊邪那岐尊が活動を開始した時点では、葦原王国(中国地方の西半部)が拠点になった。
 記紀によれば、先ず、淡路島(アワジノシマ)、次いで、淡島(アワノシマ、現四国)、筑紫島(チクシノシマ、現九州)の順に征服し、更に、隠岐島・佐渡島・越島(越前・越中・越後)や周辺の小島等を奪取していった。
 即ち、東の毛人五十五カ国、西の衆夷六十六カ国がこれである。
 ここで云う「国」とは、大小の豪族が、自らのなわばりと主張している地域を云う。
 ところが、記紀には記載されていないのが、海北の九十五カ国である。
 これは、地理的には、朝鮮半島そのものであり、国の数から見て、現在の韓国の領域とほぼ同じ地域と見て良い。
 伊邪那岐尊は、兵を率いて渡海し、遮二無二この領域を占領したのであろう。
 これこそが、八世紀の大和朝廷では記述する事すらタブーとなっていた「アマ」の領域であり、高天原(タカアマハラ)そのものであろう。
 大和朝廷において記紀を編纂していた時代には、朝鮮半島南部地域は、既に、大和朝廷とは無関係の他国になっている為、記紀ではアマもタカアマハラも、その国の場所を曖昧にして表現してある。 
 (古事記は西暦七一二年、日本書紀は西暦七二〇年に完成した)

詳細については、2017年4月投稿の「葦原王朝」を参照されたい。

 この時点で、大王(大神)を名乗った伊邪那岐尊の統治する地域は、現在の中国地方、四国全土及び九州全土、北陸地方(新潟県、富山県、石川県、福井県)、朝鮮半島の南部地域(高天原)、並びに周辺諸島嶼と見て良かろう。
 伊邪那岐尊は、高天原の統治者として御子の天照神アマテラスノカミを派遣した。 アマを統治(タラス)女王の意を持つ贈り名である。
 四国には御子の月読尊ツキヨミノミコトを赴任させた。 トコユノクニ(四国の別名)を見る(統治する)の意の贈り名である。
 最後に、末子ながら、須佐之男尊を太子に指定した。
 日本書紀一書(6)に「須佐之男尊は天下(アマ以外の諸国)を治らす(統治する)べし」と記されている。