2019年7月17日水曜日

三王朝併立(1)

三王朝併立の時代があった(1)


第一 葦原王朝

 葦原王朝は、伊邪那岐尊イザナキノミコトと伊邪那美尊イザナミノミコトの婚姻をもって、国造りの嚆矢とする。
 この段階での統治範囲は、国名「豊葦原千五百秋瑞穂之地トヨアシハラチイホアキミズホノクニ」を読み解けば、東から、出雲・石見・備後・安芸・周防・長門の全土及び筑前・豊前の各一部とみられ、伯耆・因幡も傘下に入れてあったかもしれない。

 両尊は、互いに協力し、まず淡路島を奪取、ついで四国全土を攻略奪取し、更に九州の熊襲を撃破し、その後、北越地方・周辺島嶼を傘下に入れた。

 当時の戦いは「矢戦」に続いて「矛」と「棍棒」の肉弾戦であったと想像できる。
 「剣」などは武将しか持ってはおらず、それは身を守ることにしか役には立たなかったと思われる。
 イザナキが、このような広範囲の領土を獲得したのは、単に武力が卓越していたばかりではあるまい。
 武力が対戦相手を凌駕していたとしても、皆殺しにしたのでは、占領した地域は荒廃してしまい、自国の領土にしても旨味はない。
 占領した地域を安定した状態にするには、善政を敷くに越したことはない。
 私は、イザナキが相手の為政者や部族の長は処罰しても、従った兵は、本来農民であったことから、全て許して釈放したものと見ている。
 それでなくては、このように見事に広い地域を獲得することはできまい。
 
 この段階で、国名を「大八島国オホヤシマノクニ」と変えた。
 紀元前200年前後とみられる。

 その直後、イザナミが不幸な事故に逢い、崩御されたとみられ、入り婿であったイザナキは、「大八島国」から追われることとなり、現九州地域に戻った。

 イザナキは、態勢を立て直し、現韓国領域(タカアマハラ)を侵略奪取し、統治者として大日孁貴オオヒルメノムチ(後の天照神)を、副王として、月読尊ツクヨミノミコトを派遣した。
 大日孁貴は、芦原王国の武力を背景とし、呪術の能力を発揮して、ゆくゆくは、天照大神としてあがめられるようになる。
 次いで四国全土を奪取し、統治者として、タカアマハラから月読尊を呼び戻し派遣した。
 (「現韓国領域」については、「日本最古の大王」(既述)にその根拠を記してある。)

 その後、イザナキは葦原王国を奪取すべく、太子のスサノオを派遣するが、スサノオの猛烈な反対にあって、侵攻をあきらめざるを得なくなった。

 スサノオの斡旋により、イザナキと葦原王国との和議が成立し、葦原王国は、イザナミ女王の遺児である建速須佐之男尊タケハヤスサノオノミコトを第九代の国王として迎え入れることになり、国名も「葦原中国アシハラノナカツクニ」と変えることになった。
 スサノオは、イザナキの太子であるとともに、「葦原中国」の国王となった為、その統治範囲は、葦原王国の全地域と、現九州の全域を受け継ぐことになった。
 四国の「月読尊」も、その傘下にはいることとなった模様である。

 スサノオは、この事実を知らせるとともに、タカアマハラをもこの傘下に入れようと目論み、イザナキの許可を得て、タカアマハラに向かう。

 ところが、アマテラスの抵抗に遭い、姉弟の情誼に負けて、一時は、タカアマハラを独立国として認めるが、収まらないのが、スサノオ隷下の将軍たちである。
 あくどい嫌がらせを繰り返し、ついには、逆剥ぎにした馬を天井上から投げ込み、アマテラスに重傷を負わせ、その助手を即死させるという暴挙にでた。
 結果的には、アマテラスは崩御したとみてもよかろう。

 収まらないのは、タカアマハラの閣僚や分国の国王だけでなく、スサノオに同行した現九州や、現四国の国王たちも猛反発をした。

 スサノオは、長い期間を経て、釈明につとめた様子であるが、結果は好転しない。

 遂に癇癪を起こしたスサノオは重大な「放言」をしてしまう。
 一、事故の責任者の将軍たちは死刑にする、(髭を切り手足の爪を抜く)
 二,クニの全てをアマ国に譲る。(千座置戸=千にも及ぶ穀物備蓄倉庫を贈る)
 三,自らは、「葦原中国大王」を退位して、単なる「葦原国王」に戻る。
   (尊称<大神>を捨て、単に須佐之男尊に戻る)

 その結果、いずれかの時期に葦原王朝の領域はアマテラスの傘下にはいることになり、数十年後、大国主神オホクニヌシノカミの御代にそれが実現した。

 タカアマハラから帰国したスサノオは、不平分子ヤマタノオロチを討伐したり、元「葦原中国」の領域の治安を維持した結果、元の権力を取り戻し、国名を「八島国ヤシマノクニ」と変更し、自らは「大王(大神)」と名乗った。
紀元前170年前後と思われる。

 十数年を経て、スサノオは、後継者として、唯一の正系の娘「須勢理毘賣スセリヒメ」の入り婿である「大国主神」を指名する。
 但し、大国主神は、イザナキやスサノオ程のカリスマ性がなかったと見えて、スサノオに命ぜられた「アマ」領域までを傘下に入れることはできなかった。

 (大国主神の尊称「神」は、元臣下に与えるもので、その詳細は、「古代における尊称について(既述)」を参照されたい。)

 「葦原王朝」の統治範囲は、スサノオから譲り受けた葦原王国、筑紫王国、四国王国、及び周辺島嶼群を継承していた。

 葦原王国の統治範囲は、山陰地方では、長門、石見、出雲、伯耆、因幡、但馬、丹後、丹波、若狭、越前、越中、能登、越後と連なり、山陽地方では、周防、安芸、備後、備中、美作、備前、播磨と続く。又、隠岐の島、佐渡島を含んでいる。

 その統治範囲の広さと独自の文化の高さから、かなり強力な軍事力と経済力とを兼ね備えていたものとみられ、「王朝」としての存在価値を高めて行く様子が伺える。

 「鳶王国」とは、その国が滅びる紀元前三十四年前後まで、友好関係が続いており、葦原王国は、その国を滅ぼした「大和」とも、付かず離れずの関係を保持していたようである。

 また、筑紫王朝(九州)の時代となっても、その重要な構成国としての「葦原王国」が継続的に存在したが、筑紫王朝の締め付けがゆるんだ後は、「王朝」としての独自の政権を維持した。

 葦原王国の国王は、第十代の大国主神と第十一代の阿遅志貴高日子根神アジシキタカヒコネノカミまでしか記録されていない。
 第十二代以降については、記紀の記述からは消されてしまう。

 しかし、大国主神の正系の子孫は、「葦原王国」の統治者として、第十二代以降も連綿として世襲されていたことは間違いあるまい。

 その事は、八重事代主尊ヤエコトシロヌシノミコトや大年尊オホトシノミコト以下の官僚の子孫の系譜が如実に示している。
 百年ほど後の神武天皇の正妃は、八重事代主尊の子孫として登場するくらいである。

 葦原王国の官僚の子孫の諡号(シゴウ贈り名)を分析すると、多くの者は、葦原王国の重要な官僚として活躍しているが、「鳶王国」との往来も多く、近畿地方から紀伊半島にまで足跡を残しているようである。
 又、その一部は、文化の伝達者として、北陸・信濃・甲斐あるいは東海を経て、遠く関東地方にまで到っていたらしい。

 葦原王朝が、大和王朝に併呑された時期は確定できないが、おそらく8世紀以降のことと思われる。

 以下、各系譜に従って分析してみる。
一 須佐之男大神~大年神の系統は、葦原王国の主要な職務もしくは各国の国王

 大年神オオトシノカミと伊怒比賣イヌヒメ(威の姫の意味で、神託裁判所判事)との間の御子は次の通り。
 1 大国御魂神オオクニミタマノカミ   国家守護神斎祀部長官。
 2 聖神ヒジリノカミ         天文観測長宮。=日知り。
 3 韓神カラノカミ         ンマ国に派遣された人質養子か。
 4 曾富理神ソホリノカミ      ミム国に派遣された人質養子か。
 5 白日神シラヒノカミ       シンル国に派遣された人質養子か。

 大年神と香用比賣カヨヒメ(香木管理部長官)との間の御子は、次の通り。
 1 御年神ミトシノカミ       総理大臣(次代)。
 2 大香山戸臣神オホカガヤマトノカミ 鉱山管理部長官。カグ=鉱石。

 大年神と天知迦流美豆比賣アマチカルミズヒメとの間の御子は、次の通り。
 1 奥津日子神オキツヒコノカミ   宗像の沖ツ宮の彦。
 2 奥津比賣神オキツヒメノカミ(別名大戸比賣神)。
      宗像の沖ツ宮の姫。戸籍部長官を兼ね、後に竈の神として崇められた。
 3 大山咋神オホヤマクヒノカミ(別名山末之大主神ヤマヌシノオホヌシノカミ)。
      霊山鎮護部長官(次代)。分国霊山の総元締めを兼ねた。
      後に、甥の若山咋神ワカヤマクヒノカミに職を譲り、近江国王となる。
      (近淡海国の日枝山及び葛野カズノの松尾に坐して、鳴鏑を用つ神と記され       ている。)
 4 香山戸臣神カガヤマトオミノカミ 鉱山管理部長官(次代)。
 5 羽山戸神ハヤマトノカミ  水軍要塞司令長官(ハヤ・マツ)。
 6 庭津日神ニハツヒノカミ  山城国丹羽邑の首長。
 7 阿須波神アスハノカミ   若狭国足邑の首長
 8 波比岐神ハヒキノカミ   河内国羽曳野邑の首長
 9 庭高津日神ニハタカツヒノカミ 山城国丹羽邑の首長(次代)。
10 大土神オホツチノカミ(別名土之御祖神)。
     安芸国大土邑(双三郡)の首長。土師部族開祖王。

  上記の羽山戸神と第三代の大宜都比賣神との間の御子は、次の通り。
 1 若年神ワカトシノカミ   総理大臣(次々代)。
 2 若山咋神ワカヤマクヒノカミ  霊山鎮護部長官(次々代)。
 3 彌豆麻岐神ミズマキノカミ 灌漑部長官。=水求ぎ。
 4 若沙那賣神ワカサナメノカミ 若狭国女王。
 5 夏高津日神ナツタカツヒノカミ 紀伊国那智邑の首長。(別名を夏之売神)
 6 秋毘賣神アキヒメノカミ  安芸国安芸郡の女王。
 7 久久年神ククトシノカミ  紀伊国総理大臣。
 8 久久紀若室葛根神ククキワカムロクズネノカミ  紀伊分国牟婁古座邑の首長

 概観すると、御子を多数出産したとされる方もあるが、それらの方の侍女(側妾)等に生まれた御子も、自分の子として扱ったのではないか。

二 大国主神~鳥鳴海神トリノナルミノカミの系統は文化の伝達者だったか

 大国主神の御子の鳥鳴海神は、八島士奴美神~鳥耳尊(富山の女王)を経た須佐之男神の血筋であり、その子孫は、新天地を求めて、活動範囲を東へ東へと移動させて行き、最終的には、関東地方にまで到達したらしい。それぞれ、多くの御子が生まれたことと思うが、要職に付いた神のみが記録されている。

 鳥鳴海神以下の子孫の神々の名前に、東海・甲信越・関東の地名が付いているのはこの様な訳であり、埼玉県大宮市の「氷川神社」は、元は葦原王国の大宮であり、須佐之男神を始めとし、葦原王国の主要な神々が御祭神として祭祀してある。
 即ち、須佐之男命、奇稲田姫命、大穴牟遅命の他、足名椎命、手名椎命、少名毘古那命、多紀理毘賣命、市寸島比賣命、多岐津比賣命等である。
 又「氷川神社」の社名の由来は、出雲の簸川(=斐伊川)だそうである。

 鳥鳴海神以下の子孫の名称を、順に記せば次の通り。
   鳥鳴海神。     尾張の女王、=鳶の鳴海。
   その御子の 国忍富神クニノオシトミノカミ     富山王。=鳶の王。
   その御子の 速甕之多気佐波夜遅奴美神ハヤミカノタケサハヤチヌビノカミ
           溶鉱炉管理長官 兼 多気のサワヤの摂政王。
   その御子の 甕主日子神ミカヌシヒコノカミ    溶鉱炉管理長官(次代)。
   その御子の 多比理岐志麻流美神タヒラキシマルミノカミ  駿河王。
         タヒラギのシマ=駿河。
   その御子の 美呂浪神ミロナミノカミ     美濃王。=美濃の見。
   その御子の 布忍富鳥鳴海神ヌノオシトミトリノナルミノカミ 
         尾張王(次代)。=根の忍の鳶の鳴海。
   その御子の 天日腹大科度美神アマノヒハラオホシナドミノカミ
            信濃王。=アマのヒの原の大信濃の見。
   その御子の 遠津山岬多良斯神トオツヤマサキタラシノカミ
           上野王。埼玉県大宮付近を首都か。