2017年4月8日土曜日

魏志倭人伝(現代語翻訳)

魏志倭人伝の原文を、一気に現代語に、翻訳致しました。楽しくお読み下さい。

 三世紀に書かれたこの歴史書は、漢字一つ一つの「発音」は二十一世紀の今日、往時のものとはかなり異なっていると言われているが、漢字の「意味」は変わっていない。又、文法は全く変わってはいない。
 これを従来の日本の国学者や歴史学者は「漢文読み」にしていたが、一挙に「中国語」を「現代日本語」に翻訳して再吟味してみるのも一興ではなかろうか。

   倭人伝(イジンデン)
 おおかたの歴史書は、これをワジンデンと読む。しかし三世紀当時の発音では、「倭」という字は、「ヰ」若しくは「イ」と言うのが正しい。


 
『倭人在帯方東南大海之中。依山島爲國邑。舊百餘國。漢時有朝見者。今使譯所通三十國』
 倭の民族は、帯方郡(今の北朝鮮の最南端)の東南の大海の中に在り、山や島に住んで国や邑(大きな村)を造っている。
 以前は百余国から成っていた。漢の時代、(中国の)朝廷に参賀して皇帝に拝謁をした倭国の王の使者が居た。
 現在 (三世紀)において、使者が往来でき、言語が通じ、外交が出来る所は、三十カ国である。
 「漢の時代の朝見者」とは、酉暦五十七年に朝貢して金印(漢委奴国王)を授与された王(王名不詳)及び西暦一〇七年に朝貢した「帥升」と称する王である。
 以前の百余国が三十国になったのは、その昔、天照大神の孫(天孫)が大国主神から譲り受けた百余国のうち、中国地方や北陸・四国に威令が届かなくなり、直接統治する地域が九州島北部の四分の三と周辺の島々のみになったのではなかろうか。


 
『従郡至倭、循海岸水行、歴韓國乍南乍東、到其北岸狗邪韓國。七干餘里』
 帯方郡の郡都より倭の都に至るには、先ず海岸線に沿って水上航行し、韓国内を通過するときには南に行ったかと思えば東に行き(ジグザグに通過)、倭国の北岸の狗邪韓国(伽耶)に到着した。(その間の行程は)七千余里であった。
 「魏志」が編纂された当時、極端な短里が用いられており、その一里は76.6mである。
 つまり、千里というのは、たかが76.6kmである。(証明資料あり)
 千里の駒というのが居たそうであるが、普通の馬が、たかだか一日に50kmしか走れないのに、その1.5倍も走れたという優れた馬のことを呼んだ。
 「七千余里」というのは、七千里(約530km)よりちょっとだけ多いという意昧であり、540~570kmぐらいと考えて良かろう。

    

 
『始度一海、千餘里、至對海國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百餘里。土地山険多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸、無良田、食海物自活。乗船南北市糴』
 初めて一海を渡ったがその距離は千余里。対海国(対馬南島)に到着した。
 其の大官の官名を卑狗(彦)と言い、副官の官名を卑奴母離(ヒヌモリ=鄙守、土着の首長)と言う。
 その島は大海の中の孤島で、一辺が約四百余里と見た。土地は山が険しく深い林が多く、道路はけもの道のようである。
 千余戸が有るが、良田はなく、海の産物を食料として自活している。そのため船に乗って南北に交易(シテキ=市糴)している。
 千余里は、海上航行時間を距離に換算したものであり直線距離ではない。

『又南渡一海、千餘里、名曰瀚海、至一大國。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里。多竹木叢林、有三千許家。差有田地、耕田猶不足食。亦南北市糴』
 また南へ一海を渡ること千余里。この海を名づけて瀚海(カンカイ)と言う。一大国(壱岐島)に到着した。
 長官はまたもや卑狗と言い、副官を卑奴母離と言う。
 その島の一辺は約三百里と見た。竹木の叢林が多く、三千ばかりの家が有る。やや田地は有るが、田を耕しても、なお食べるには足りない。
 従って、ここでも、また、南北に交易している。
 「瀚海」は、荒々しい海という意味で、対馬海峡の東水道に付けられた中国古名で、今、「玄界灘」にその痕跡(語源)を見る。

『又渡一海、千餘里、至末廬國。有四千餘戸。濱山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈没之取』
 ふたたび一海を渡ること千余里で末盧国(佐賀県松浦郡)に到着した。
四千余戸が有り、浜と山と海に住み分けている。
 草や木が繁茂し、歩いていても前の人が見えないくらいである。
 好んで魚を捉え、水が深いところでも浅いところでも、皆潜ってこれらを採集する。

『東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸。世有王、皆統屬女王國。郡使往來、常所駐』
 東南方向に進みはじめて五百里ほど陸行して伊都国(糸島市)に到着した。
 ここの長官を爾支(ニシ)と言い、副官を泄謨觚(セモコ)・柄渠觚(ヘイキョコ)と言う。
 千余戸が有り、代々王が居る。この国は昔から女王国に統属していた。
 郡使が倭国を訪問するとき、常に駐在することが慣例になった国である。
 
『東南至奴國、百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。東行至不彌國、百里。官曰多摸、副曰卑奴母離。有千餘家。南至投馬國。水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戸。南至邪馬壹國。女王之所都。水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。可七萬餘戸』
 東南方向に百里程の距離に奴国(福岡市早良区南部)有るという(「行」という動詞がないので、実際は行っていない)
 その長官を兕馬觚(シマコ)と言い、副官を卑奴母離と言う。二万余戸ほど有るという。
 東の方向に百里も行くと不彌国に到着した。
 長官を多摸(タモ)と言い、副官を卑奴母離と言う。千余家が有る。
 南の方向に投馬(トウマ)(奄美か沖縄)有るという。そこに行くには水上航行で二十日かかるという。(「行」という動詞がないので、実際は行っていない)
 その長官を彌彌(ミミ)と言い、副官を彌彌那利(ミミナリ)と言う。五万余戸程有るらしい。
 (不彌国から)南面すれば、即ち、邪馬壹国(ヤマイ、ヤマタイではない)に到着。女王の都する所である。
 (これまでの旅の行程を帯方郡から数えれば)水上航行十日間、陸上行程一ケ月である。
(邪馬壹国の)長官は伊支馬(イシマ)と言う。次の官を彌馬升(ミマショウ)と言い、次の官を彌馬獲支(ミマカシ)と言い、次の官を奴佳(ヌカデ)と言う。七万余戸有ると見た。
 郡都から邪馬壹国までの行程を総括すると次のようになるであろう。
 帯方郡都の南方の良港から牙山あたりまで水行、釜山方向に韓国内をジグザグに縦断、狗邪韓国(伽耶)に到着。この間(水行千五百里、陸行五千五百里)計七千余里。
 釜山あたりで乗船し、対馬南島では上陸して島を半周し、次に壱岐島でも島を半周し、最後に松浦半島の唐津付近に上陸した。
 この間(水行は三千里。陸行千四百里)計四千四百里。
 末廬国から五百里で伊都国に到着。ここで郊迎の礼を受けた後、東へ百里で不彌国に到着、南面すれば、そこは邪馬壹国の都の玄関口である。
 この間陸行のみで六百里。
 これを合計すれば、郡都から倭都まで、水行で十日(四千五百里)、陸行で三十日(七千五百里)、計一万二千里を要したということである。(水行は一日に四百五十里、陸行は一日に二百五十里)
 邪馬壹国の首都そのものも、戸数七万余戸とあるからには、かなり広い地域の筈であり、その中央を流れているのが中川(那珂川)であろう。現在の福岡市中央区・博多区・南区を含む地域と見て間違いなさそうである。


『自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。次有斯馬國、次有巳百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國。此女王境界所盡。其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。自郡至女王國、萬二千餘里』
 女王国より以北については、その戸数やそこに至る道程は、略載する事が出来るが、その他の国々は遠く離れているので詳細は判らない。
(女王国に近い順に)斯馬国、巳百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国が有る。
 ここが女王の勢力の及ぶ境界が尽きる所である。
 その南に、狗奴(クヌ)国があり、男子を王としている。
 その首長の名を狗古智卑狗(クコチヒコ)といい、女王国に属していない。
 郡都から女王国に至るまでの距離は、一万二千余里(920km余り)であった。
 「その他の国々」とは、倭国が申告した国名であり、当然和文読みを漢字に当てはめて記述してあるのだが、当時の漢字の発音が正確に分からない限り、現存の九州の地名に比定することが困難である。
 従来、これらの国名を、土地の名称と考えた為、現存の地名に比定するのが困難であったが、国の首長の名前と考えては如何だろうか。当然地名を名乗っている国も混在しているだろう。
 狗奴国は、女王の境界尽きる所(奴国)の南にあるというのだが、この当時、邪馬壹国とまともに国境紛争をするだけの人口と武力を持った陸続きの南方の国と言えば、隼人を擁した熊襲の国しか無いであろう。

 後漢書の編者范曄ハンヨウは、何を勘違いしたのか、「女王国より東、海を渡ること千余里、狗奴国に到る」などと書いている。

『男子無大小、皆鯨面文身。自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。夏后少康之子、封於會稽、斷髪文身、以避蛟龍之害。今倭水人、好沈没捕魚蛤。文身亦以厭大魚水禽。後稍以爲飾。諸國文身各異、或左或右或大或小、尊卑有差。計其道里、當在會稽東治之東』
 男性は大小となく、みな顔にも身体にも入れ墨を入れている。
 いにしえから、倭国の使者が中国の朝廷に参上するときには、皆、自らを太夫(中国最古の王朝時代の家老職)と称していた。
 「夏王朝」の天子少康の王子が、会稽の地の領主に封ぜられた折、漁師には髪を短く切り、入れ墨をすることを教え、これによって蛟龍(鮫のことか)の害を避けることが出来たという。 今、倭の漁師は好んで水に潜り、魚や貝を捕るが、入れ墨は相変わらず大きな魚や海中に潜む獰猛な動物から身を守っているのであろうか。
 時代は下がって、これらの入れ墨は飾りとしての役割を持つようにもなった。
 諸国の入れ墨はそれぞれ異なり、或いは左に、或いは右に、或いは大に、或いは小に染め分けていて、しかも、尊卑に差が有る。
 倭国への道程を計算すれば、まさに、會稽において東部の地を善政をもって治めたといわれる地域の東に当たる。
 中国「夏」朝、第六代天子少康の王子が、会稽郡の太守となり、善政を施し民を徳化した。その時の一例として漁民に断髪文身をさせたことを挙げ、倭人もこの徳化に浴したのであろうか、と陳壽は記述しているのである。
 「会稽東治(カイケイトウチ)」とは、まさにこのことであり、女王国はその昔の会稽郡(遼東半島含む)の東に在ると述べているのである。
 五世紀に後漢書を編纂した范曄は、三国志を誤読して「会稽東冶(カイケイトウヤ、5世紀当時の会稽郡東冶県・台湾島西側)」としたため、日本列鳥の位置が台湾島付近にまで南下するという珍妙なことになってしまった。


『其風俗不淫。男子皆露紒、以木緜招頭、其衣横幅、但結束相連、略無縫。婦人被髪屈紒、作衣如単被、穿其中央、貫頭衣之。種禾稲紵麻、蠶桑緝績、出細紵縑緜。其地無牛馬虎豹羊鵲。兵用矛盾木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃。所有無輿儋耳朱崖同』
 その風俗は決して卑しくはない。
 男子は皆髪をミズラに結い、木綿の布をもって頭を飾り、その衣服は横に広く、ただ結び合わせて身につけており、ほぼ縫うことはしていない。
 婦人は髪をマゲに結い、衣を作るにあたかも一枚の布のようで、中央に穴をあけてそこから頭を出して身につけている様に見える。
 稲・麻を植え、蚕の繭を紡ぎ、麻布・絹・綿を産出する。
 倭国には牛・馬・虎・豹・羊・鵲は居ない。
 武器としては矛・盾・木弓を用いている。木弓は下を短く上を長くし、竹の矢には鉄の鏃あるいは骨の鏃を用いている。
 その地の産物は、儋耳(台湾)及び朱崖(海南島)の物と似通っている。
 従来の歴史書は、この一節の文章をもって、「貫頭衣」などという熟語を作り、宮廷の貴婦人達が、まるで頭陀袋の天辺に穴をあけて、それを被っているような表現をしているが、とんでもない話である。
 衣服の好みなどというものは、長い時間をかけてそれぞれの民族が創り上げた文化であって、麻、綿、絹等の織物を作る民族が、裁縫という技術を知らないわけはない。
 ここに記述されているのは、中国の使節が、目のあたりにした倭国宮廷内貴族男女の髪型・服装描写の筈であり、当時のファッションであった筈だ。

      


『倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣。有屋室、父母兄弟臥息異處。以朱丹塗其身體、如中國用粉也。食飲用籩豆、手食』
 倭の土地は気侯温暖であって、冬でも夏でも野菜を産出してこれを食べることが出来、皆(足袋や靴下をはかず)裸足で生活している。
 家には部屋が多数有り、父母兄弟はそれぞれ別の部屋で過している。
 朱丹を用いてその身体に塗り化粧するが、丁度中国で粉を用いる様なものである。
 飲食には高坏を用いているが、箸は使わず、手で摘んで食べている。

『其死、有棺無槨、封土作冢。始死、停喪十餘日。當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飲酒。巳葬、擧家詣水中澡浴、以如練沐。』
 人が死ぬと、死体を棺に収めるが、墓に槨(石等で作る土中の隔壁)は無く、土に直接埋めて(チョウ、塚)を作っている。
 死者が出ると、十数日間、喪に服する。喪中は肉類を食べず、喪主は嘆いて泣き通す習慣のようだが、その他の者は集って、歌い踊り、酒を飲む。
 葬儀が一通り終ると、一家総出で川に行き、ミソギをする。その様子は水遊びのようである。

『其行來渡海詣中國、恒使一人、不梳頭、不去蟣蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人、名之爲持衰。若行者吉善、共顧其生口財物。若有疾病遭暴害、便欲殺之。謂其持衰不謹』
 海を渡って中国に来る時には、常に一人を選んで、その者には髪を梳かさせず蚤や虱がわいても取除かせず、衣服は垢で汚れたままで、肉を食べさせず、女性を近づけず、まるで死んでしまった人の様に扱う。これを持衰(ジサイ)と名付ける。
 もし、航海が旨くいけば、その持衰に奴隷や財物を与えて感謝し、もてなすが、もし疾病が発生したり暴風に遭ったりすると、この持衰を殺してしまう。
 その持衰が身を慎まなかったからだと言うのが、その理由である。

『出真珠青玉。其山有丹。其木有柟杼豫樟揉櫪投橿烏號楓香、其竹篠簳桃支。有薑橘椒蘘荷、不知以爲滋味。有獮猴黒雉。』
 真珠や青玉を産出する。山には丹(べにがら)が有る。
 生えている樹木は、柟・杼・豫樟・揉・櫪・投・橿・烏號・楓香、竹の類には篠・簳・桃支が有る。
 薑・橘・椒・蘘荷が有るが、それを薬味にして食物に味付けをすることは知らない様である。
 猿と黒雉がいる。

『其俗擧事行來、有所云爲、輒灼骨而卜、以占吉凶。先告所卜、其辞如令亀法、視火拆占兆。其會同坐起、父子男女無別。人性嗜酒。』
 民衆は、大切な行事をするとき、意見を出し合った後、骨を焼いて吉凶を占う。
 先ず占う内容を宣告するが、その言い方は、丁度中国で行う令亀法の様だ。
 骨を焼いたひび割れの様子を見て吉凶を判断する。
 集って座談をする様子を見るに、親子や男女の区別はないようであり、彼らは皆酒を好む様である。

『魏略曰、其俗不知正歳四節、但計春耕秋収、爲年紀。』
 魏略によれば、倭人は、「正歳四節」という暦の体系を知らず、春分と秋分を知って、それを元且とすると言う。
 「魏略に曰く…」斐松之(宋代の歴史学者)による注記である。
 これによると、一年に春と秋の二回の元旦があった訳で、倭人は当時、一年を二歳に数えていた。歴史学者古田氏は、これを「二倍年歴」と呼んでいる。
 魏略は三国志と同時代資料であり、内容の正確さは定評がある。


『見大人所敬、但摶手、以當脆拝。其人壽考。或百年、或八九十年。其俗、國大人皆四五婦、下戸或二三婦。婦人不淫、不妬忌。不盗竊、少諍訟。其犯法、軽者没其妻子、重者没其門戸及宗族。尊卑各有差序、足相臣服。収租賦、有邸閣。國國有市、交易有無、使大倭、監之。』
 身分の高い人を敬う姿を見てみると、ただ、柏手を打つ事により、中国の跪拝に相当する。
 倭人は長生きの人が多く、或は百歳、或は八、九十歳。 
 一般に、身分ある人は皆四、五人の妻を持ち、身分低くても或いは二、三人の妻を持っている者もいる。
 女性は、浮気をせず、焼餅も焼かない。泥棒はいないし、訴訟沙汰も少ない。
 もし法を犯す者がいれば、軽いもので、妻子を没収して奴卑にし、重罪を犯せば、一族縁者悉くを奴卑に墜す。
 身分の軽重により自ずから差と序列が決っていて、お互いに犯すことがない。
 租税を収める大きな建物がある。
 それぞれの国に市が立って、各種の品物を交易しており、使大倭と称する官吏が、これを監督している。
 倭人は長生きであり、八、九十歳から百歳、と述べているが、二倍年歴であるから、実際は四十~五十歳であつた。古事記・日本書紀における神武天皇等の歴代天皇の年齢も二倍に数えられていたと見て間違いなかろう。
 下戸も或いは二、三婦とあるが、下戸の大部分は〇~一妻。
 これを後漢書の范曄は「下戸も二、三婦」と、誤って解釈し「倭国には女多く男少なし」と書いてしまった。

      

『自女王國以北、特置一大率、検察。諸國畏憚之。常治伊都國。於國中有如刺史。王遣使、詣京都帯方郡諸韓國、及郡使倭國、皆臨津捜露。傅送文書、賜遣之物、詣女王、不得差錯。』
 女王国より北の国(狗邪韓国を含む)には、特に一大率(武装軍団)を置いて、睨みを利かせているので、諸国はこれを恐れ憚っている。
 この軍団は、伊都国に常駐している。
 国の中には、中国の刺史のような官吏がいて、王が、京都(洛陽)や帯方郡・諸韓国に使者を送りだし、及び、帯方郡の使者が倭国に到着したときに、皆、港において、接待すると共に、文書を伝送したり、下賜される品物を女王に届ける度に、間違いが起らないようにしている。

『下戸與大人相逢道路、逡巡入草、傅辭説事、或蹲或跪、兩手據地、爲之恭敬。對應聲、曰噫、比如然諾』
 庶民が身分ある者と道路で行きあえば、後ずさりして路傍に避け、何事かを申し上げる際には、或いはうずくまり、或いはひざまづき、両手を地につき、これを以て恭敬の礼儀とする。
 返事をするときは、「アイ」と言う。分りましたと言っている様である。

『其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王。名曰卑彌呼。事鬼道、能惑衆。年巳長大、無夫婿。有男弟、佐治國。自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍。唯有男子一人、給飲食、傅辭、出入居處。宮室樓觀城柵嚴設、常有人、持兵守衛』
 その国は、元は男子の王であったが、即位以来七、八十年にして倭国は乱れ、お互いに攻め合うこと数年間に亘った。
 そこで、当事者たちが、一人の女子を共立して王とした。
 この女王の名前を卑彌呼(ヒミコ)と言う。神懸りの巫女としての高い能力を持ち、年齢はすでに適齢期を超えているのに夫婿がない。
 弟が居て、副王として国政を助けている。
 女王となって以来、女王の姿を見た人は少なく、婢千人が自ら奉仕している。
 ただ一人の男子が信任され、飲食を勧め、女王に進言し、或は女王の言葉を伝えるため、女王の居室に出入りを許されている。
 宮室・楼観・城柵を厳かに設け、常に警護の人が周囲におり、武器を持って守衛している。
 元、男子の王は、七十~八十年(二倍年歴なので実際は三十五~四十年間)在位したが、晩年に至って、恐らく後継者の選定に失敗したのであろう。
 数年間の内乱の後、卑彌呼が共立された。

      

『女王國東、渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國、在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國黒齒國、復在其東南船行一年可至。』
 女王国の東に海を渡ること千余里(約80km)で、又、国がある。皆倭人種である。
 また、その南には小人の国があって、身長は三、四尺である。女王国から四千余里ほど離れている。
 又、更にその東南方向に、裸国・黒歯国があって、船で行くこと一年で行き着くという。
 この一節には、実は大変な事が書いてある。
 裸国・黒歯国について。倭国から東南の方角に当たり、船行一年(二倍年歴だから実際は半年)の距離にこれらの国があるという。即ち、南太平洋のフィリッピン・インドネシア、更には、ポリネシア・ミクロネシアあたりのことである。
 倭人は海洋民族であり、倭人が何を目的として、どのコースを辿って太平洋を渡ったのかは明かではないが、この当時、倭人にとって太平洋の諸島は旧知の島々であったと言えば言い過ぎだろうか。

      


『參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶、或連、周旋可五千餘里』
 倭地(邪馬壹国に統属する国々)について問えば、この国々は、海中の島の上に存在し、或いは離れ、或は連なっており、その巡る範囲は五千余里(およそ400km)であろうか。
 巡る範囲が400kmというのであれば、九州島以外の土地とは思われず、倭国の範囲は従来の歴史書等に記述されているものに較べると、意外に狭いものと言わざるを得ない。
      


『景初二年六月、倭女王、遣大夫難升米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守劉夏、遣吏將送詣京都。其年十二月、詔書、報倭女王曰、制詔親魏倭王卑彌呼、帯方太守劉夏、遣使送汝大夫難升米、次使都市牛利、奉汝所獻、男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈、以到。汝所在踰遠、乃遣使貢献、是汝之忠孝、我甚哀汝。今以汝爲親魏倭王、假金印紫綬、裝封、付帯方太守、假授。汝其綏撫種人、勉爲孝順。汝來使難升米牛利、渉遠道路勤勞、今以難升米、為率善中郎將、牛利爲率善校尉、假銀印青綬、引見勞賜、遣還。今以絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹、答汝所獻貢直。又特賜汝、紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠鉛丹各五十斤、皆裝封、付難升米牛利。還到、録受、悉可以示汝國中人、使知國家哀汝。故鄭重賜汝好物也』
 景初二年(238)六月、倭の女王は、大夫難升米等を派遣して帯方郡に至り、天子の元に参賀して朝貢したい、と希望してきた。
 そこで、帯方郡の太守の劉夏は、官吏を同行させ、倭の使者達を京都(洛陽)に送って行かせた。
 その年の十二月、天子は詔書して倭の女王に報せて曰く、
「親魏倭王としての卑彌呼に詔を下す。
 帯方の太守劉夏が官吏を副えて、汝の大夫難升米、次使都市牛利を送って寄こし、汝の献納したところの男の奴卑四人・女の奴卑六人、班布二匹二丈を奉げ持ち、都に到着した。
 汝の居る所は、はなはだ遠いのに、使者を派遣して貢物を届けてきた。これは汝の忠義と孝心であり、我は極めて汝を大切に思う。
 今、汝に親魏倭王(シンギイオウ)という正式官名を与える。金印紫綬を与えることにし、梱包密封して帯方太守を通じて届けさせる。汝はその人民をよく治め、中国の天子に対し忠孝に励め。
 汝が派遣した使者の難升米と牛利は、遠路はるばると苦労してここに到着した。今、難升米を率善中郎将に任命し、牛利を率善校尉に任命し、銀印青綬を与え、自ら面接して労りの言葉を掛け、帰国させる。
 今、絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹をもって、汝が献納した貢物の答礼とする。
 又、特に、汝には、紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠鉛丹各五十斤を与えることにし、みな梱包密封して難升米・牛利に持ち帰らせる。
 使者が帰り着いたならば、記録受領し、これら全てを汝の国中の人民に示し、國家が汝を大切に思っていることを知らせよ。
 よって、鄭重に汝によき物を与えるものである。」
 卑彌呼貢献の景初二年六月は、魏による公孫氏征伐の最中であり、従来公孫氏を通じて中国と交際していた倭国が、公孫氏を見限って、魏朝に直接接触を図った事件であり、魏帝は殊のほか喜悦したものと見える。
 その証拠が、他に例を見ない莫大な下賜品と異例の長文の詔書である。
 卑彌呼の使者が持参した貢物は、まことに貧弱であるが、使者一行が戦場の中をさまよい、魏朝側の司令部を捜しあてるまでに、持参した貢物のうちの多くを、ワイロとして使わなければならなかつたのではあるまいか。
 ともあれ、戦争の帰趨を、いち速く察知し、戦争終結以前に勝利者側に渡りをつける国際感覚は、並大低のものではなく、当時の中国の出先機関と倭国との間は、官民を問わず往来が頻繁であったものと思われる。
 従来、景初二年六月は、景初三年六月の誤りである、といわれたものであるが、誤りではない。魏の明帝が景初二年十二月に急病を発し、景初三年正月に崩じたため、景初三年という年は、魏朝は喪に服しており、外交も含めて一切の諸儀典は停止されていたのである。
 日本で発掘された考古学資料のうちに、「景初三年鏡」というのがあるが、天子の喪中に目出度い字句や紋様を画いた鏡が鋳造されるわけが無く、もし、その様なことが有れば、それを作った工人も、それを容認した官吏も、間違いなく斬首の刑に遭っていただろう。
 つまり、「景初三年鏡」という物は、中国製ではなく、日本製だと言うことであろう。

      


『正始元年、太守弓遵、遣建中校尉梯儁等、奉詔書印綬、詣倭國、拝假倭王、并齎詔賜金帛錦罽刀鏡采物。倭王因使、上表答謝詔恩。』
 正始元(240)年、帯方郡の太守弓遵は、建中校尉の梯儁等を派遣し、詔書・印綬を奉じて倭国に至り倭の女王に拝謁し、詔書をもたらし、金帛・錦罽・刀・鏡・采物を下賜した。
 倭の女王は、使者を派遺して、上表し、詔恩を答謝した。
 詔書と下賜品は、本来倭国の使者に渡される筈であったが、明帝の急病から崩御に至るまでの宮廷の騒ぎに紛れてしまい、難升米等も、取るものも取りあえず帰国せざるを得なかった。
 次の皇帝が即位し、年号が正始と改められてから、改めて魏朝側が使者団を編成し、詔書と下賜品を携行し、倭国を訪問した。
 なお、卑彌呼は「上表した」とあり、当然文字を駆使していたであろう。
 これは、大和朝廷に文字が伝来したとされる応神天皇の十六年(二倍年歴で換算された年号、酉暦四一〇年)よりよほど早い時期である。

      


『其四年、倭王、復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人、上獻生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹木拊短弓矢。掖邪狗等、壹拝率善中郎将印綬。 其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假綬。』
 正始四(243)年、倭の女王は、再び大夫の伊聲耆・掖邪狗等八人を派遺し、生口・倭錦・絳青縑・緜衣・帛布・丹・木拊・短弓矢を上献させた。
 天子は、掖邪狗等に、率善中郎将の称号を許し、印綬を下賜した。
 正始六(245)年、詔して、倭の難升米に黄幢(コウトウ、天子直属の臣の印)を下賜することにし、帯方郡太守を通じて授けた。

『其八年。太守王頎、到官。倭女王卑彌呼、與狗奴國男王卑彌弓呼、素不和。遣倭載斯烏越等、詣郡、説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等、因齎詔書黄幢、拝假難升米、爲檄、告喩之』
 正始八(247)年、帯方郡太守の王頎が、朝廷に参上して報告するには、
「倭の女王卑彌呼は、狗奴國(熊襲)の男王卑彌弓呼と元々不和であり、倭載斯の烏越等を派遺して郡都に至り、互いに攻撃し合う状況を説明してきた」という。
 そこで、朝廷は、塞曹掾史の張政等を派遺して、詔書・黄幢をもたらし、難升米に会って告文を示し、善処するように伝えさせた。

『卑彌呼、以死、大作冢、徑百餘歩、殉葬者奴婢百餘人。更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。復立、卑彌呼宗女壹與、年十三、爲王。國中遂定』
 卑彌呼が死んだので、(倭国)は大いなる冢(チョウ、塚)を作った。
 その直径は百余歩(26m前後)。殉葬する者としては、奴婢百余人に及んだ。
 更に、男王を立てたが、国中の者はこれに従わず、再び互いに殺し合い、死者は当時で千余人に達した。
 そこで、再び、卑彌呼の宗女壹與(イ・ヨ)、年十三歳を立て、女王としたところ、国中は遂に治まった。
 卑彌呼が崩御した年号は明記されていないが、後継者の壹與の貢献の年号から類推するに、西暦二六四年頃であろう。(この頃、塞曹掾史の張政等は、倭国に滞在していた。)
 「壹與」は、壹(イ=倭)が姓で、與(ヨ)が名である。

      


『政等、以檄告喩壹與。壹與、遣倭大夫率善中郎将掖邪狗等二十人、送政等還。因詣臺、獻上男女生口三十人、貢白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雜錦二十匹』
 塞曹掾史の張政等は、告文を示し、壹與に今後の事について、指導(アドバイス)した。
 そこで、壹與は、倭の大夫、率善中郎将掖邪狗等二十人を派遣して、張政等が中国に帰るのを送らせた。
 その足で、臺(タイ、中国の朝廷)に参賀し、男女生口三十人・白珠五千孔・青大句珠二枚・異文雑錦二十匹を献上した。
 「臺」とは、当時、天子の宮殿を指す代名詞であり、当時、臺という字を使う字句は禁句で、臺という字は全て同音異字に置き換えさせられた。人名も同じ。
 「臺」と「壹」とはよく似た字であるが、「邪馬壹國」を「邪馬臺國(邪馬の天子の國)」と誤記するなど、中国の歴史官僚には許されないことである。
 壹與の貢献の時期は、倭人伝には明記されていないが、晋書に拠れば、晋の武帝の泰初二年(266)のことであるという。

      

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