2019年2月11日月曜日

女王「卑弥呼」について

1.「卑弥呼」は天照大神の直系

 古代のある時期、天照大神は、葦原中国アシハラノナカツクニの統治者として、その孫(天孫)を、天下らせた、と記紀ともに記録している。

 以下、その様子をダイジェストしてみよう。
 天照大神は、葦原中国の統治者として筑紫嶋チクシノシマに天火明尊アマノホノアカリノミコト及び天番能邇邇芸尊アマノホノニニギノミコトの二人を派遣した。
(記紀の本文に於いては、天番能邇邇芸尊のみを派遣したことになっている)
 この王子達は、天照大神の孫にあたり、「天孫」と呼ばれる。

天火明尊の正式の諡号は、天照国照彦火明尊アマテラスクニテラスヒコホノアカリノミコト
といい、アマを治め、クニを治める王という意味を持つ(日本書紀一書(八))
天番能邇邇芸尊の正式の諡号は、天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸尊アマニギシクニニギシアマツヒコヒコホノニニギノミコトといい、アマの為に祈り、クニの為に祈る王という意味を持ち、祭祀担当の副王である。

 天孫の派遣に当たって、兄の天火明尊は、かなり成長していた様であるが、弟の天番能邇邇芸尊は未だ幼児であり、衾フスマにくるまれ、母に抱かれていた。

  天孫の一行は、天忍日尊及び天津久米尊が指揮する親衛隊に護衛され、沿道で歓呼して見送る住民を掻き分け掻き分け、アマ国内を南北に縦断した。
 諸々においてアマ王朝の威厳を示しつつ行進し、アマ国の南岸(釜山か馬山あたりか)に着いた。
 更に、天孫一行は、大国主神から差し向けられた案内人の猨田毘古尊サルタヒコノミコト(津島国王か)の誘導に従って、アマを離れクニに向かった。
 一行は、天の浮橋アマノウキハシ(軍船)に乗って対馬、壱岐を経て対馬海峡を越え、唐津(佐賀県)付近に上睦した。
 唐津付近からは陸路東の方向に進み、笠沙埼カササノミサキ(糸島半島)に至った。
 そこは、筑紫嶋チクシノシマの首都の地であり、筑紫嶋国王の事勝国勝長狭コトカツクニカツナガサ(伊邪那岐大神の子孫)が、大国主神に命ぜられて、出迎えに参上していた。

 天火明尊は、事勝国勝長狭の案内で福岡湾岸の地方を巡視した後、竺紫の日向チクシのヒナタにおいて新王朝の経営を開始した。

 古事記には、天火明尊が次の様な詔勅を出したとある。
「この土地は、韓国カラクニに向かって笠沙の岬から真っ直ぐの場所で、朝日も夕日も差す日向ヒナタの国である。良い土地である。」
 記紀では、天孫が降臨した場所は、「日向ヒムカの高千穂峰タカチホノミネ」と記述されており、この表現は、天空から降りてくる場所としてはふさわしいが、現実の人間として、アマ国から降臨するとなれば、やはり本稿に記したように、アマ~唐津~糸島半島と辿った場所の方がふさわしい。
 新たに設営した「筑紫王朝」の首都は、現在の福岡市中央区・博多区・南区を含む地域と見られ、その地域の真ん中を流れる川を「那珂川(中川)」と名付けたと見える。
 時に、西暦紀元前一三〇年頃の事であった。(二倍年歴で逆算した)
 この王国「筑紫王朝」の名称は、いつの頃からか、「倭国イコク」と呼ばれる様になった。
 後に、魏志倭人伝で「邪馬壹国ヤマイコク(邪馬倭国)」として紹介される倭人の王朝である。

 この王朝は、九州を直轄領とし、葦原中国の、その他の領土(アマ国、葦原王国、四国)には従来の国王をそのまま存続させた。
 因みに、「九州」という名称は、古代の中国においては天子が直接統治する地域の範囲をいい、倭王は、そっくりこれを真似して、直轄領を「九州」と称していた。

  後の大和王朝の立場からいえば、自らの出自が「天孫族」で、遠祖が天番能邇邇芸尊であることが重要なのであって、天孫として天降ったのは、天番能邇邇芸尊のみとし、日本書紀の本文ではそのように記述している。
 しかし、全く嘘をつくわけにもいかないので、一書(八)において、さりげなく、天火明尊の正式の諡号(天照国照彦火明尊)を記している。
 つまり、8世紀に、自らの力で併呑してしまった宗家(倭国)の家系などは、記述しないばかりか、抹殺の対象であろう。
 従って、「筑紫王朝(倭国)」の初代大王の天照国照彦火明尊とその子孫に関する事績は一切書いてない。
 また、初代副王天番能邇邇芸尊の正系の子孫についても記述がない。

 幻の「九州王朝史」の様なものがあれば、明記されていたのかもしれない。
 しかし、中国の史書は、永年に亘って「朝貢」を続けてきた「筑紫王朝」を、「邪馬倭国ヤマイコク」もしくは「倭国イコク」として、「漢書」「魏志」「晋書」「宋書」「梁書」「隋書」「旧唐書」に記録し続けていた。 つまり、「筑紫王朝」は天照大神の正系(傍系でない)の王朝である。

 卑弥呼は、この連綿と続いてきた「筑紫王朝(邪馬倭国)」の女王として、「魏志」に登場する。
 決して、大和王朝の「某女帝」としてではない。

 大和王朝が中国と外交を始めたのは、8世紀、中国の「唐」の時代となってからであり、「小野妹子」が第1次遣唐使として登場するのである。
 それ以前の外交は全て、「筑紫王朝(倭国)」が実施していた。

 この「結論」に異論のある方は、日本書紀の「外交」に関する部分のみを抜き書きして、精読されることをお勧めいたします。
 なに、それほど難しいことではありません。
 パソコンを使えば、原文の「コピー」「整理」「検索」など、すぐ出来るし、半月ほどの勝負でしょう。



2. 「卑弥呼」の宮殿は壮麗であった

 弥生時代の人々は、みんな掘っ建て小屋に住んでいたのか。
 全国の古代遺跡を再現した公園には、掘っ建て小屋ばかりが並んでいる。
 縄文末期と見られる大国主神ですら、出雲様式といわれる壮麗な「宮殿」にお住まいではないか。
 現代の我々が考える以上に、建築技術は進んでいたと見て間違いなさそうである。
 なるほど、資力の乏しい庶民は、藁葺きの4~6本柱の半土間の家に住んでいたかも知れないが、王侯貴族ともなれば、立派な宮殿に住んでいてもおかしくはない。

 日本書紀によれば、天番能邇邇芸尊アマノホノニニギノミコトの御子火遠理尊ホオリノミコトが、竹で編んだ小舟に揺られて着いた綿津見尊ワタツミノミコトの屋敷は、壮麗な宮殿であったとされる。

 時代は下がって3世紀の卑弥呼は、婢1、000人にかしずかれていたとされる。
 少なくとも、その5%程度(50人)の女性が、常時、女王卑弥呼と同じ場所に出入し、奉仕していたと見なければならない。
 すると、かなり大きな建物あるいは建物群が必要になってくる。
 その他の女性は、炊事・洗濯・掃除・庭の景観の維持等に従事していたのであろう。
 これらの女性達を収容する大規模な建物群が必要になってくる。

 更に、「男弟」と記述されている「副王」が実際の政務を行っていた政庁としての建築物も、大勢の家臣団が政務を補佐していた筈で、大規模な建物群があったと見なければならない。

 この時期、中国に於いては、「臺タイ」と呼ばれる豪壮な宮殿群が建ち並んでいた。
 このような宮殿を見慣れていた筈の「魏」の使節が、「宮室・樓觀・城柵、嚴かに設け、常に人有り、兵を持して守衛す。」と感嘆して記述しているように、卑弥呼の宮殿は木造建築なりに、壮麗なものであったに相違ない。
 「樓觀」という語感からすれば、数階建ての建築物であって、単なる火の見櫓や見張り台などのような粗末な物である筈はなく、ことによれば、「三重の塔あるいは五重の塔」の可能性もある。
 「城柵」という語句があるところを見れば、この宮殿は、「城」としての機能も持っていたと思われる。
 何故、このような遺跡を再現しないのか不思議でならない。



3. 「卑弥呼」の宮殿には文字官僚が居た

 魏志倭人伝に拠れば、卑弥呼は「上表した」とあり、当然、卑弥呼の宮廷には中国語に堪能で、中国語の文章を書き、特に「表」という外交文書の書式も知り尽くした官僚が居たはずである。
 その官僚が渡来人であるか否かは判らないが、複数の人員で構成される一部署があったものと思われる。

『楽浪海中倭人イジン有り。分れて百餘国を為す。歳時を以て来り献見す、と云う。』(漢書燕地)
  とある様に、卑弥呼の邪馬壹国ヤマイコク(九州王朝あるいは筑紫王朝)は、前漢の時代から、朝鮮半島に所在した、「中国の出先機関」を通じて、中国に朝貢を続けていたということで、中国語の素養を持つ人材も多数いたと見て良い。

 卑弥呼が中国に遣使した、難升米等の正使・副使の他に、随員の中に通訳としての職務を持つものが含まれていたであろうことは想像がつく。
 続けて、「魏」の使節団が来訪したり、「倭国」の使節が訪中したりして、良好な関係が維持された。

 大和朝廷に文字が伝来したとされるのは、応神天皇の16年とされるが、従来の一倍年歴では西暦286年のこととされていた。二倍年歴で換算すると西暦410年前後になる。

 ただ、この記事は怪しい。
 たかが、王仁という学者が、「論語」「千字文」という文書を持参して奉納し、皇太子の家庭教師になったという話であって、これが、「文字」が初めて大和朝廷に伝えられた記録であるか否かは、今となっては想像以外の手段がない。
 大和朝廷にこれ以前に文字が伝わっていた可能性もある。
 その辺は、皆様の想像力に任せましょう。

 卑弥呼の最初の貢献は、「魏」の景初二年(238)の事であり、いずれにしても大和朝廷よりよほど早い時期に文字を駆使していたことになる。
 紀元前かもしれない。

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